無名の伝記-1
この町はいい町だ。
誰が言ったわけでもない、誰も言わないわけじゃない、誰もが口にしなくても感じることだった。
活気があって、自然に恵まれて、海に隣接していて、一度訪れたら長く住みたくなってしまう。人を引き付けて止まない町だった。
大きくはないが豊かな町、この町の名はジェイド。
今日も大量の新聞を配る為に一人の少年が町を駆け抜けている。
「おっちゃん!朝刊!」
「おお、エバン!朝から元気だな。」
「おっちゃんもな!」
新聞を配る一件一件に挨拶をしながらエバンは毎日、この町を駈けていく。徐々に賑やかになる通りを賑やかにしていくのがエバンの役目でもあった。
「おはよう、エバン。」
「エバン!今日もご苦労さま!」
次々に溢れてくる朝の挨拶、中でもこの町一番の挨拶は商店街に並ぶアパートから聞こえてくる。二階の窓が開き、中から漆黒の髪の女性が顔を出す。
「エバ〜ン!」
お目当ての少年を見つけた女性は少し低めの声を高らかに上げて名を呼んだ。もちろん少年もそれに反応し、声のする方を見る。そこには嬉しそうに手を振る女性の姿があった。
「頑張ってるねぇ!今日もしっかり働くんだよ!?」
「うるせぇよ、ババア!」
女性の言葉が終わった瞬間にかぶせてエバンは怒鳴り付けた。もちろん黙ったままでいるはずもなく、ババア呼ばわりされた若い女性はすぐに反応した。
「私はまだ22だよ!あんた、一体誰に食べさせてもらってると思ってんだい!」
「オレだって働いてんじゃねえか!」
「ハッ!私の足元にも及ばないね!」
高らかに笑うセリカ。毎回見せ物になっているのに気付いているのかいないのか、彼女は堂々と窓際にいた。
「あいつ、化粧代にオレの給料費やしてんじゃないだろうな?」
そんなエバンの呟きをセリカが聞き逃す訳がなかった。彼女の気持ちに火を点ける結果となり。
「なんだって!?」
そう叫びながら窓の桟に片足をかけてすぐにでも飛び降りかねない勢いで身を乗り出した。その状況にエバンはもちろん、商店街の住人も一斉に叫びながら身振り手振りで彼女を止めようとした。それは部屋の中も同じで、止めようとする手が見える。
「バカ、危ねぇだろ!!何考えてんだてめぇは!」
「人が応援してやってんのに、失礼な事言うからだろ!やっぱりしつけの為にも飛び降りて…っ!」
「いいっ!オレが悪かったからセリカ!」
セリカと呼ばれた黒髪の女性は肩までつかないくらいのウェーブをなびかせて、息荒くエバンを見ていた。下ではハラハラしながらエバンがセリカを見つめている。