無名の伝記-6
「懐かしい味…。」
煙草に火を点けて深く吸い込んだ。かたぎの世界に戻るなんて、そう容易い事ではない。慣れない日常に情緒不安定になり、一度止めていた煙草をまた手放せなくなる時期があった。
生温い日々、これが普通という生活。自分がどれだけ世間から異質なものに成り果てていたか思い知る毎日だった。苛立ちが募る、住み慣れた世界に戻りたくもなる。
そんな中、彼女を救ったのがエバンのあの一言だった。
「…良かったじゃないの。これであの子も幸せになれる。」
まるで目の前に自分がいるように、優しく諭すように呟いた。でもこの気持ちはなんだろう?涙が出そうになる高ぶる感情はなんだろう。
目を強く閉じて、気持ちを落ち着かせるように深く煙草を吸い込んだ。真上に吐き出された煙を見て思う、しかし頭の中には何も浮かばなかった。ゆらゆらと舞い消えてゆく煙をただ見ていた。
視界が緩まないだけマシなのかもしれない。何も考えることができず昔を思い出していく。
「決めるのはエバン。私が口を出すことじゃない。」
煙草の火を消してセリカは窓から町の景色を見下ろした。真下の商店街の通り、いつもエバンが新聞配達をする道。
セリカはふとエバンの部屋の方を見た。自然と足がそっちに向かう、ゆっくりと静かに扉を開ける。扉のきしむ音が静かな部屋に響いた。こちらに背を向けて、窓の方をむいてエバンは横たわっている。
前かがみになり、そっと優しく髪を撫でてやる。愛しさがセリカの中で生まれ、衝動から彼のこめかみ辺りにキスをした。そして微笑む。
「明日も早いんだろ?早く寝なよ、エバン。おやすみ。」
そう言い残してセリカは部屋から去っていった。その表情は楽しそうに笑っている。扉が閉まった瞬間、エバンは凄い勢いで飛び起きた。そう、エバンは起きていたのだ。
「なんだ!?」
囁くような声で叫ぶ。手で口を覆い、高まる鼓動と熱くなる顔を感じていた。いま自分の身に起こった事があまりにも衝撃的で彼の平常心を崩す。
「もういい、寝る!」
自分に言い聞かせて、さっきと同じ窓の方をむいて布団を被って横になった。しかし高まる鼓動はなかなか収まる事を知らない。堅く目を瞑ってもキスの感触が思い出されて仕方ない。
否定すればするほど意識せずにはいられなかった。目を覚ますように物凄い勢いでキスをされた場所を叩く。もちろんそれで収まる訳もなく、何度も何度も叩きまくって痛さに悶えたくらいだった。
(ちくしょうっ!眠れねぇ!!)
再び勢い良く飛び起き、自分の中で悶えに悶えた後、前屈姿勢で崩れた。それは敗北をも意味している。
「何考えてんだ、あいつ?」
真っ赤な顔でセリカへの文句を呟いた後、深いため息を吐いた。かすかに残る香、いつもの香水を消してしまった煙草の匂いが鼻につく。
また吸っていた。
一気に平常心を取り戻すには効き目がありすぎた。セリカはエバンがいない所できっと煙草を吸っている。そう確信した。
らしくない態度、一体何が彼女に不安を与えたのだろうか。エバンの中で疑問が飛びかう。
問い詰めても彼女はきっと笑って誤魔化すだろう。やりきれない思いを抱えてエバンは再び眠ることにした。