気にしない足跡たち-1
寒いな―――と杉浦雄三が云う。
薄い灰色の空からは、ちらちらと儚い雪が落ちている。
「そうですね」
空を見上げる谷町敏之の横で、杉浦は酒を呷る。医者には止められているが、谷町も咎めはしない。
杉浦はもう、長くはないからだ。
少しでも長く生きては欲しいけれど、彼の人生を思うと谷町は何も云えなくなる。
彼は充分必死に生きて来た。人を憎みながら、人を傷付けず、ただ普通に―――そう見えるように―――生きて来た。
彼が良いなら、酒くらいもう好きに飲んで良いだろう。
「人は変わったかな、先生」
ぽつりと杉浦が漏らした言葉に、谷町は俯く。
「変わりません」
「だろうな」
笑って、杉浦は酒を飲む。
「俺は、生きてて色んな事考えたよ。なあ先生、目には目をって云うだろ?」
「ええ」
うっすらと赤い杉浦の顔を見ながら、谷町は相槌を打つ。
「あれは、奪われた以上に奪うなって事だろ?人ォ殺したら、どうなるんだろうな」
「ハンムラビ法典までは明るくないので―――」
真面目に返す谷町に、杉浦は笑う。
「そうだろうな、流石に。なあ先生。一人殺しただけじゃ死刑にならないなら―――殺した方の命のが価値があんのかな」
「―――そう取られても仕方がないですね。法律は冷酷です」
谷町は必死で働いて来たけれど、時折思う。
人を法律で救う事など出来るのだろうか?
限界は、思ったより近くで自分を待ち構えているのではないか。
人の気持ちは余りに不確定だから―――決まり事には馴染まない。
あの人は平気だが、この人は耐えられない。そんな曖昧なものに、法律は対応しきれない。
だから、裁判は被害者の為にやるのではないと、感情を切り捨ててきた。
感情は、余りに複雑で多様で、不安定だ。
どう対応すべきか悩んでいる間にも次々と事件は起こり、人々は傷ついて行く。
谷町はそれを見ている事しか出来ない―――そんな事は幾度もあった。
被害者の為に、悲しむ人々を救う為に―――法改正はそんな理由では叶わない。
決まり事は人を救う為にある訳ではないからだ。
厳格で厳密で、情など介さないのが法律だからだ。
外交も政治も法も、真っ直ぐな正論ではどうにもならない。
正論は殆ど感情論だと云われてしまうし、事実そうかも知れない。
だが、司法に救いを求める人間もまた、確実に居るのだ。
それが叶わぬ願いと気付かずに。