恋…前編…-1
夕方、藤野一巳は工場と事務所を行き来していた。手には電卓と数枚の書類を持って。彼は機械に付けてある温度計や圧力計、流量計などを読み取ると、持っている書類を開いて電卓を叩くと、機械の横にあるツマミをわずかに動かす。そして、また事務所へと帰って行く、その繰り返し…
入社して半年、彼は初めて機械の調節を任されたのだ。
一巳は高校を卒業すると医薬品製造工場に就職し、10人の同僚達と共に3ヶ月間の研修を工場業務に励んだ。研修後、各人は工場の製造パートごとに配属されたが、一巳だけは"施設管理部"という部署に配属となった。
施設管理とは読んで字のごとく、工場内の施設を点検、保守や運用管理する部署だ。
彼は3ヶ月間、先輩についてたくさんの設備に対して学んできたが、今日からは小さな設備だが"管理担当者"を任された。
一巳はその事が非常に嬉しくて、何度も自分なりに調整していた。
事務所に戻って対数計算をもとに熱交換器の温度差を算出する一巳に女性が声をかける。
「任せられて嬉しそうね」
一巳は声のした方向に顔を向ける。総務課の細川だ。
一巳は顔を赤らめながら、
「そういう風に見えます?ホントは緊張してるんです。うまく扱えるかなって」
細川は一巳に近寄ると微笑みながら、
「大丈夫よ。新人さんは皆、その設備を任されるの。出来るわよ」
なんだか答えになっていないが、励ましてくれているのだろう。一巳はとりあえず(ありがとうございます)と返す。
細川は(頑張って)と言った後、(コレ、課長に渡しておいてね)と手にしていた書類を一巳に手渡した。
受け取ると、再び微笑んで総務へと帰って行った
一巳のそばを彼女の残り香が漂っていた……
彼女と初めての出会いは、新入歓迎会の席だった。新入の対面の席に、彼等の上司となる係長や課長など中間管理職が座った。一巳の前は工場長である広瀬だった。
最初、大人しい印象で呑んでいた広瀬だったが、次第に酔いがまわると饒舌となり、自分の自慢話をやりだした。
一巳はそういう人間は嫌いだったが、祝いの席ではそうもいかずに最初は愛想良くしていた。が、そんな広瀬は一巳に対して攻撃的な言葉を浴びせてくる。
(困ったなぁ)と苦笑いを浮かべながら辺りを見回すと、他の人達は広瀬の"酒癖"を知ってか見向きもしない。さらにひどくなる広瀬……
さすがにガマンならず、怒鳴りつけようとした瞬間!
「まあまあ広瀬工場長。そのくらいで勘弁してあげてくださいヨ。藤野君達、新入が萎縮してますよ」
そう言って一巳を見て、目くばせで(逃げて)と合図をくれて助けてくれたのが細川だった。
そのままトイレへ行き、座敷には戻らずに廊下で酔いを醒まそうと夜風にあたっていると細川が表れた。
一巳は開口一番、
「先程はありがとうございました。助かりました」
細川はニッコリ笑うと、
「工場長は良い人なんだけど……それよりアナタ、気をつけなさい」
「エッ?」
「その目!さっき私がいかなかったら、工場長に掴み掛ったでしょう。ダメよ、そんな事……」
一巳は驚いた。自分の行動をこの人は見抜いていたのだ。