たばこ-1
屋上にでると、突き刺すような寒さを感じた。本来は地上を暖めてくれる陽光も、ぶ厚い雲でさえぎられてしまって届かない。
ポケットから煙草を一本取り出し、火を点ける。
『煙草なんか吸ってると心が曇るよ!』
立ち上る紫煙とともに広がる、あの頃の記憶に包まれる。
『関係あるよ!君が体壊したら親だって悲しむよ!』
思い出すのはあいつの影ばかり。
『何でそんなこと言うの?誰も悲しまないわけないよ…』
始めて会った相手に説教した変なやつ。
他人事なのに悲しそうな目をした。
『今話をしている、それだけでも、まったくの他人事じゃないでしょ?』
はじめはそんな分けないと思っていた。
『私は、私が知っている誰かが不幸になるのはイヤなの!』
だけど、親ですら無関心な俺のために、心を痛めてくれた、初めての人だった。
『もう吸っちゃダメだからね!約束!』
はじめはただのお節介な女だった。でも、気が付いたらあいつは俺の世界の中心になっていた。
『うん、煙草は吸ってないみたいだね。よろしい!』
ただ笑顔を見ただけで、世界が輝いた気がした。
『話って…なに?』
こんなに人を好きになったのは初めてだった。その気持ちを隠さずに伝えた。
『え…?あ、え、えーっと、あの、私もあなたが…』
だけど‥‥
冷たい風が吹き付けて、煙が空に拡散していく。触れることのできないぐらい、遠くへと流されていく。
ここで煙草に火を点ければ、あいつがまた説教しにくるような気がした。
だが、もうそんなことはありえない。
煙草はもうほとんど燃え尽きていた。
あいつは煙で心が曇るといっていた。ならばこの煙を吸えば、心のなかのあいつのことも霞ませてくれるのだろうか?
そう思い、数年ぶりに吸ってみた。肺のなかに煙が満ちる。が、喉に痛みを感じただけだった。
『私もあなたが…』
なかなか煙を吐き出せなかった。
あいつが煙に気付いて、また説教してくれるような気がして。
だから、ゆっくりと煙を吐き出した。
あいつの影を思い出しながら。
吐き出した煙は、呆気ないほど簡単に、あいつの影を連れて、遠くへ遠くへ、空に広がって消えていった…
…来年も再来年もまた、ここに来て煙草を吸うだろう。
君がまた、怒りに来てくれるような気がするから。
だから、これからもこの日だけは煙草を許してくれ。
この日だけ、また君に怒られにくるから。