銀色雨傘X-4
彼は一人きりで、その場に立ちつくしていた。
もう長いこと、ほんとうにとても永いことそうしていたような気がする。遠のいていく雷の音は、そのまま雨雲の動いていく音だ。重々しく低い轟きは、大気の巨大な流れをよく表している。しかし彼はそこから動くことはできなかった。傘をなくしてしまい、雨の中を濡れながら帰る決心もつかず、そこで立ち往生している次第だった。
彼はぼんやりと立っていたが、同時に淡い期待も抱いていた。もしかしたら、と思う。もしかしたら、兄が傘を持ってきてくれるのではないだろうか、と。だからこうしてさっきから、駅舎の入口に立って降りしきる雨を眺めている。行き交う人々は誰も彼を気に止めない。彼らは夕暮れの闇と同じ色をして、影のようにぼやけながら揺らめいて、やがてどこかへ行ってしまう。彼らがどこへ行くのかは、誰も知りえないことだ。
伏せがちだった視線を、彼はゆっくりとあげた。薄闇のわだかまる中から、白い花が近づいてくる。そう見えたのは真っ白な傘だった。雨粒を受けて淡く銀色に鈍い光を放っている。彼は駆け出した。傘を持つ人物の顔は見えなかったが、彼はそれが誰かをすでに知っていた。
――兄さん。
駆け寄ると、傘に隠された顔は小さな笑みを浮かべた。その表情に、彼は心の底からの安堵を感じた。
――よかった。兄さん、もう来てくれないんじゃないかと思った。
真上に傘を差しかけられる。蓮の花びらのようなその色が、頭上の曇天を覆い隠した。
『いっしょに帰ろうか』
かけられた言葉にうなずいて、彼は兄の手を取った……
雨は始まったときと同様に、急速にその雨脚を弱めていった。風もやみ、聞こえる音は屋根のひさしや草木から落ちる水滴の音だけとなった。静かな音が満ちる中に、動くものは何も見えない。ただ、名残のように降る霧雨のみが、細い線となって降り続けていた。
紫陽花の若葉から、硝子のような滴が落ちる。落ちた先で、水溜りに波紋を一つ作った。いくつもの輪が重なりあって生じ、それらがふいに小さく煌めく。水面が陽光を反射したのだ。
雲の一角がぼんやりと白く輝き、そこから滲むようにして薄い水色が広がっていく。やがて碧空が、そこから顔をのぞかせた。静かに伸びる光に、雨に濡れた紫陽花の花の、そこかしこが十字に輝く。いつしか雨は消え去り、雲はほとんど白に近い灰色となっている。かすかな涼風が庭先を横切り、地上に漂う湿気を拭い去っていった。
雲間から見えるくっきりとした空の碧(あお)は、ひと月前のそれとは全く別のものだった。その碧空の中を、一羽の白い鳥が横切り、その碧色の中に溶け込むようにして見えなくなる。
夏が始まろうとしていた