銀色雨傘X-2
――ここには、誰もいないんだ。
咲貴の中を様々な想いが渦巻き、一歩ごとに頭の中を跳ね回った。美咲はどこに……母の言葉……名前。花が好きで……『兄さん、傘を持ってきたよ』……アジサイの花。青紫の花……あの少年、後姿だけの。自分は彼を知っている。友人ではない。親族でもない。でもずっと昔から知っている……白い雨傘、銀色の雨傘……。
闇雲に走りつづけるうち、ふいに視界が開けた。思わず足をとめる。傘を打つ雨粒の音を圧して、何か大きな音がする。ほんの数歩先になだらかな斜面があり、その下を川が流れていた。雨に水量を増した川は濁り、猛って、岸辺の草を飲み込み揺らめかせながら流れている。茶色い水が跳ね上がり、充分すぎるほど水気を含んだ土は、足を乗せれば簡単に崩れてしまいそうだ。実際、川の水は土を溶かし込んだ色をしている。
慣れない場所を走ったせいで、咲貴はすっかり方向を失った。もう美咲の家もどこか分からない。この川がどこに続いているのかは分からないが、川沿いに歩けばどこかへ行き着くだろう。咲貴はそう判断した。
呼吸を整えて歩き出そうとした、まさにその瞬間だった。一陣の強い風が前から吹き付けてきた。それは大気の流れというよりは、半ば固形化した衝撃に等しかった。不意をつかれた咲貴は、反射的に目を閉じてしまう。手から傘をもぎ取られるのを感じた。傘はふわりと宙を舞い、くるくる廻って土手に落ち、斜面を転がっていく。止める間はなかった。咲貴の目の前で、傘はそのまま川の流れに乗ってしまった。上を向いた傘の柄が葯に似て、水の上に一輪の白い花が咲いたように見える。しかし川の流れは速く、瞬く間に雨傘を押し流し、白とも銀ともつかぬ色は雨の向こうへ消え去っていった。
咲貴はただそれを呆然と見送った。