銀色雨傘V-1
美咲、というのは咲貴に与えられた『もう一つの名前』だった。まだ咲貴が生まれる前両親は、男の子が生まれれば咲貴、女の子が生まれれば美咲にしようと決めていたらしい。男にサキと名付けるのもどうかと思うが、花が好きな母は、子供に『咲』の一字を入れたかったのだそうだ。
――もし、弟か妹が生まれたら……
また、母はこうも言った。
――必ず美咲って名前にするわ。
もう随分と前に、そんな話しをした。その言葉が頭のどこかに残っていたのだろうか。咲貴は少年にその名を与えた。
美咲の家は、咲貴の家とはまるで違う方向にあった。ひどく静かな場所で、雨音以外は殆どなんの音もしない。時折どこか遠くから、野鳥の啼き声が聞こえるだけだ。その鳥も声のみで、姿は決して見せようとしない。
咲貴の傍らを歩く美咲は、終始無言だった。目元は傘に隠れて見えず、表情を窺うことはできない。白い雨傘は細かな雨滴に飾られ、朧に光ってさえ見えた。初めて会ったときも、咲貴はこの傘に目が引きつけられた。何故だろう。自分でも不思議でならない。
不意に傘が横へ逸れた。見ると、美咲は一つの家の門扉を開けている。周りをぐるりと垣根に囲まれた家だ。美咲は傘を畳むと、そのまま家の中に入って行った。やや躊躇しつつも、咲貴もそれにならう。誰かが――『美咲』の家族がいないか期待したが、家の中はしんと静まりかえっていた。
「ねえ、来て。アジサイがきれいだ」
声のする方へ向かうと、美咲は庭に面した部屋で、籐椅子に座って外を眺めていた。庭のすみにアジサイが植えてある。青と紫の中間色の花鞠が、やや重たそうに咲いていた。
「アジサイって、紫の陽の花って書くの、本当?」
アジサイから目を離さず美咲が問う。
「そうだよ。ヒマワリと一緒だ。漢字の読みが普通と違う」
「ふぅん、……何でだろう。ヒマワリは分かりやすいよ。日を向く葵、でヒマワリ。でもアジサイは梅雨に咲くのに、どうして陽の字を入れたんだろう。それに、ユキノシタ科の花っていうし。雪なんか、アジサイが咲く頃には見えないのにね」
「……花のことに、詳しいね」
どこからか重く低い音が聞こえてきた。雷だろうか。雲が動くときには、よくこんな音がする。
「うん。……お母さん、花が好きだったでしょう」
どことなく歯切れ悪く答えると、美咲はそれきり押し黙ってしまった。相変わらずアジサイに視線を注いではいたが、その瞳はどこか虚ろな様子だった。
降り続ける雨は弱まりも強まりもしない。雨音が絶えず聞こえるのに、雨の日というのはひどく静かだ。全てが空と同じ陰鬱な灰色を化し、はっきりした境界線を失ってゆく。雨にけぶって輪郭は朧になり、庭のアジサイも色を滲ませ、一枚の絵のように背景と同化していくようだった。明かりをつけていない部屋は薄暗く、部屋の隅や物陰がぼかしたような具合になっていた。
籐椅子に座っていた美咲が何も言わずに立ち上がった。そのまま玄関の方へと姿を消す。咲貴が慌てて追いかけると、もう靴をはいていた。