銀色雨傘T-1
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プラットホームに降り立った途端、咲貴の体にいくつもの雨滴が降り注いだ。電車での移動のほんのわずかな間に、雨脚は明らかに強まっていた。彼は今日、傘を持っていない。学校を出たころには、細い線のような雨がまばらにきらめくだけだったので、大丈夫だろうとタカをくくったのがいけなかった。
咲貴が駅の出入り口に降りてきたときは、雨音が外を支配していた。夏の予感をはらんだ微風が、まとわりつくように吹いてくる。人の呼気のような生暖かい風だったが、それを体に受けた後は、何故か妙な寒気がした。道行く人は皆雨傘を広げ、広がった傘の上を水玉がいくつもすべり落ちていく。
一つうまくいかないと、全てうまくいかない。傘もなければバス代もない。電話代くらいはあるが、家にかけたって誰もいないだろう。雨音が弱まる気配はなく、咲貴はただ、行き交う人々を眺めていた。……寒い。彼は見当外れの予報を出した気象庁を呪った。
降りつづける雨に気温は下がり、そのくせ風は湿って重く、不快なぬくもりを持っていた。沈殿したような空気を吸うと、それさえ雨の飛沫に湿りきっているようだ。体の中まで湿気りそうで気分が悪い。そして雨の中を、足元を濡らしながら歩く人々。雨雲に覆われた空と灰色の建築物を背景にして、彼らの傘は色鮮やかだった。牡丹の赤、海の紺、蒲公英の黄色、透明な水色。咲貴はその光景を、ややうらめしい気持ちで見つめていた。
信号が変わり、向かい側から一群の傘が渡ってくる。何気なくそれを見やり、咲貴の視線が中の一つに吸い寄せられた。白い、小鳥の羽毛のような柔らかい色合いの傘だ。セラミックのそれのような硬質さや、制服のシャツのような薄っぺらさとはまるで無縁な色をしている。その色が、何故だか咲貴の目をひく。こちらに近づいてくる白い雨傘は、鉛色が基調の風景の中で、仄白く浮かび上がるように見えた。
咲貴は何となく目を逸らし、小さな女の子が母親と連れ立って歩くのを見た。女の子は赤い雨傘と同じ色の長靴をはいて、わざと水溜りを選んで歩いている。母親は他愛のない遊びを咎めるでもなく、少し先をゆっくり歩いていく。赤い傘が回転木馬のように、くるくると回りながら遠ざかっていくのを見て、咲貴は目眩に似た感覚を覚えた。
兄さん、という声を聞いたのはそのときだった。近くからだったが、あまりに小さく微かな声だったので、雨音を聞き違えたものと思った。しかし間をおかず、はっきりとした声で呼びかけられた。
「兄さんってば」
咲貴のすぐ横に、あの白い傘があった。たたまれた傘は、朝顔の蕾のように見える。先端から滴が落ち、乾いていたアスファルトに跡を残していた。そして傘を差し出している、咲貴の知らない少年。漆を塗ったように黒い瞳が、やや低い位置から彼を見上げていた。
状況が飲み込めない咲貴に、少年は嬉しそうに微笑んだ。
「兄さん、傘を持ってきたよ」
そう言って傘を渡そうとする少年に、咲貴はとまどうばかりだ。当然のことながら彼に弟はいない。友人の弟でもない。全く知らない子供だった。
「誰かと勘違いしてるんじゃないか。僕は、君のお兄さんじゃないよ」
言ってはみたものの、少年は不服そうにしただけだった。