「はるのかぜ」-1
春の濡れ縁はうらうらと暖かく、不覚にも、いい大人が大の字のまま寝入ってしまっていた。先程、うぐいすのような声がしたのは気のせいだろうか。ぼんやりと薄目を開ける。日没まではまだ時間があるようだ。
まだうぐいすの季節には早いだろうか。緋桜里(ひおり)ならばそんなことは、ようく知っているだろう。あやめも紫陽花もわからぬこの俺に、季節ごとの花々や鳥の名を教えてくれたのは緋桜里だった。二人して詣でに行く際など、白磁のような白い指であちらこちらの枝や草花、生き物を指差しては
「あれはひよどり。かんむりのようなのをかぶっていますでしょう? ああやってあおきの実を食べているのよ」
「あれは、むらさきしきぶ。秋になると紫色の綺麗な可愛らしい実がたくさんなるのよ。」
「ほら、もう梅の蕾があんなにふくらんで。あら、颯真(そうま)さまったら何もご存知ないのね」
といって耳をくすぐるような声で小さく、くすくすと笑った。
ふわっと、なまぬるい風が鬢を撫でた。慣れぬ短髪に頭は妙に軽く、俺は再び眠りへと堕ちていった。
目が覚めるとそこに緋桜里がいた。日は既に暮れかけている。緋桜里は隣で正座をして、ぽかんと空を眺めていた。俺が好きな緋桜里のしぐさのひとつだ。
「緋桜里・・・? いつからそこにいたんだ?」
「ずっと前から居りましたに。颯真さまったら、まぁだらしのない。こんなところでうたた寝なさって。風邪をひかれますよ」
緋桜里はそう言って、ふんわりと笑った。
「すまない。つい気持ちがよくてなぁ。春眠暁を覚えず・・・ってやつだ」
「颯真さまはわたしがいないとついだらけて。だからわたしは・・・」
突然、ざざぁっと一陣の風が吹いて緋桜里の声をかき消した。
桜の花吹雪が庭中を埋め尽くし、俺は視界を失った。
緋桜里が・・・
緋桜里が行ってしまう。
俺は必死になって桜吹雪を掻き分けた。