堕天使と殺人鬼--第8話---2
「遠山先生。確かあなたには、奥さんと息子さんがお二人、いらっしゃいますね?」
ふいに三木原が、理解できない質問を投げ掛けて来た――確かに遠山には、彼より十も下の妻と、中学生に上がったばかりの長男と、まだ小学生にも満たない幼い次男がいる。しかし、それがどう関係していると言うのか――遠山は、はっとした。
それを察した三木原が、遠山の肩に手を置いて来る。
「あなたが死んでしまうと、あなたの家族は生活が一気に苦しくなるのではありませんか? しかも今ここであなたが殺されるとすれば、それは犯罪者だからです。この国最大の法を侵したあなたの家族は、一生国に睨まれる形になるのですよ? そんな状況であなたはあなたの家族を、生かすおつもりですか?」
気付けば、遠山は静かに涙を流していた。何故泣いているのか分からなかった――思考が、完全に麻痺すると言うのはこのことだ。目の前の男が何を言っていて、自分がどうするべきなのかも、全く分からなかった――俺は――私は――俺は……。
三木原は、そんな遠山の肩を優しく叩いた。呆然と三木原を見上げる遠山に、彼は、優しく微笑み掛けると続けた。
「遠山生徒が生徒たちを想っているのは、僕にもよく分かります。ですがこの法律に逆らうことは、誰であっても決して許されないのです。もういっそのこと、生徒たちのことはお忘れになってみては如何でしょうか? その方が気持ちが楽になるでしょう?」
遠山は――驚いたことにこの時しっかりと頷いていた。訳も分からず、ただ、何度も何度も頷いてみせた。
三木原が遠山が頷いたことを確認すると、一枚の紙と一本のペンを差し出して来る。無意識の内に、遠山はそのペンを握り締めていた。
「では、この契約書にサインをお願い致します。」
涙を流しながら、遠山は紙にペンを走らせた。震える指先で、必死に文字を書きなぐった。
これが、三年A組担任教師――遠山武紀が、生徒を裏切った瞬間であった。
【残り:三十七名】