狐の嫁入り-1
「陽が出てきた…」
誰かの声に目を上げる。
外は相変わらずの小雨だったけれども
俺の心を映し込んだかの様な湿っぽい空気には
その金色の光が混ざり込み始めていた。
突然傍らで、くすくすと声が上がる。
後ろを見ると、今日の主役である彼女が心から可笑しそうに笑っていた。
その眩いばかりの容貌は知らない女性のものであったが
吊り目がちの気の強い瞳や高く澄んだ声色は、確かにあの頃の少女のものであった。
「……どうしたんだよ」
しばし迷って、あの頃の様に声を掛ける。
くるんと動いた瞳は、俺を『友人』として認知していた。
「昔、言ったじゃない。お前が嫁入りする時は、絶対天気雨だーって」
「ああ……」
僅かに思い出す。
『狐の嫁入り』に掛けたそれは
少女時代の彼女へしばしば向けられた、からかいの言葉だった。
「だってお前、何処からどう見ても子狐みたいだったもんな」
すばしっこくて、いつも悪戯を考えていて
怒られようが他人を巻き込もうが、そんなの全くお構いなし。
でも不思議と目を惹いて
「そうだっけ?」
「そうだよ」
真っ直ぐ前を見る彼女を横目で見やる。
記憶の中の少女がこのようになると、誰が予想できただろう。
晴れの門出に降り注ぐ雨も目に入らないかのように
その姿は燦然と輝いていた。
「……折角の服が汚れるぞ」
『洒落た感じにガーデンパーティ』形式だったはずの結婚式は
ここまで運に恵まれないと、かえって滑稽で笑えてくる。
その滑稽さに全くそぐわない彼女を見て、ふと言葉が浮かんだ。
「考えてみれば久しぶり、だな」
太陽の光を受けて煌めく雨粒は、束の間の時を刻む様に踊っている。
「そうだね」
少しだけ変わった声が、長い空白を形作った。
それは僅かだけれども、埋めがたい距離で。
その距離を感じた瞬間、横に居る彼女と自分の目線の高さが違う事を知った。
「……色々、あったよ」
一瞬、彼女が子供に戻った気がして振り返る。
けれど俺を見返した瞳は、とても明るく輝いていた。
「でも、楽しかった」
微笑みすら浮かべて、告げる。
それは今の俺には直視できないほど眩しいもので。
……だから次の瞬間子狐の様になった彼女も、何処か遠くに感じた。
「ねえ。前も一緒に『狐の嫁入り』みたよね?」
言葉に詰まった俺を少し笑うと、その白い腕を金色の空気に晒す。
「あの時は二人だけだったけど、ね」
忘れるはずは無い。でもそれを口にする事は出来ない。
それほど、神聖な記憶だったから。
……いや。
記憶と呼んでいいのかさえ定かではない程、それは今でも鮮やかで。
「……本当に昔の話だな」
「そうだね」
しばし子供の様に笑う。
それはとても懐かしい感覚だった。
澄んだ笑い声が太陽の光に呑み込まれていく。
俺はその声を穏やかな気持ちで聞くのだ。
長い時が過ぎ去った今でも、その瞬間は不動のもので
ただそれだけが救いだった。
笑い声が、すぅ、と消える。
瞳に残った寂しさはそのままに、彼女は笑った。
とても、大人びた瞳で。
その瞬間の彼女は、確かに美しかった。
「……そろそろ行かなきゃ」
「……ああ、またな」
そう返しながら、『また』はもう二度と来ない事を知っていた。
それは多分二人とも、だろう。
だから彼女は振り返らない。そして一人で涙を拭うのだ。
幼い日への別離の涙を。
今日、狐は嫁入りする。