投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

揺れる
【その他 恋愛小説】

揺れるの最初へ 揺れる 0 揺れる 2 揺れるの最後へ

揺れる-1

 人には前世の記憶が残っている場合があるという。
 あたしは無神論者で、生まれ変わりだの前世だの、そんなの信じていなかった。


―揺れる。


 小さい頃から、あたしは不安定な場所に立つことが恐かった。
 エレベーターに乗っているとき、歩道橋を渡っているとき、建物同士の連結通路を渡っているときでさえも。
 理由なんてない。ただ恐いのだ。
 揺れることが。足元がぐらつくことが。
 そういった足元が不安定な場所に立つと、決まってあたしの頭の中に足元がガラガラと崩れていくイメージが映される。
 いつからかあたしは漠然と、自分は昔、足元が崩れて命を落としたのだと疑わなくなった。飛行機は平気だったから、きっと飛行機事故ではないのだと思う。
 それほどまでにリアルな幻覚を、あたしは何度も見た。


「イツカ」
 通りの喧騒に混じって消えてしまいそうな声に呼ばれて辺りを見渡すと、これと言って特徴のない男が、通りの向こう側から笑顔で手を振っていた。
 榛原乙香(はいばらいつか)、これがあたしの名前。どこにでもいそうな平均的日本人の顔を持ち、どこにでも売ってそうな服を身に纏う。人と違うことをするのを怖がり、集団の隅でこじんまりと収まっているのが安心する、どこにでもいる21歳の女。

 道路を挟んで向かい側にいた男が、車が通り過ぎるのを待ってから、道路を横切ってあたしの隣に立つ。160センチのあたしとあまり変わらない身長を持つこの男、山岸タケシ(やまぎしたけし)は、何かといってはあたしに付きまとい、世話を焼いてくれる数少ない男の人だ。
 中肉中背、髪の色は黒。肌の色は不規則な生活を送る大学生にありがちな白に近い肌色。たいていの大学生が持つ自動車の普通免許を持っているが、自分の車はない。彼もまた、どこにでもいる典型的な大学院生と言えるだろう。


 彼はあたしのことを「イツカ」と呼び、あたしは彼のことを「山岸クン」と呼ぶ。自分の名前にクンづけするのは止めて欲しいと二度ほど言われたけれど、3っつも年上の人を呼びつけにすることはできないからと言って、あたしは二度ともその言葉をあいまいに濁していた。


「なぁ、今日はどこに出かける?」
 …あたしはあなたと出かける約束はしてないはずだけど。
 ヤマギシはあたしとお付き合いをしていると思い込んでいるようで、あたしの姿を見つけては決まってこう尋ねる。
「決めてないわ。」
 その返事を予想していたかのように、ヤマザキはニマッと笑みを作ると「それじゃ、行きたいところがあるんだ。」と言ってあたしの2歩先を歩きだす。別段行きたいところも、予定もなかったあたしは黙ってそれに従う。
 

 天気が良いとは言えない12月の寒空の下、あたしたちは連れだって歩く。
 冬のあの澄み切った空気の匂いが鼻をくすぐってきて、あたしは左の掌で鼻の頭を軽くこする。前を見やると、少し前を歩くヤマギシの後ろ髪にいつもと同じ寝癖がついるのを見つけて、あたしは心の中でクスリと笑った。そんなあたしの気配に気づいたのか、ヤマギシは咎めるように一度こちらを振り返ったが、あたしの顔を見ると、またすぐに歩き出した。


 この日ヤマギシがあたしを連れてきてくれたのは、学校から歩いて30分ほどのところにある、薄汚れた灰色のビルの前だった。その建物の脇に立てかけてある深緑色をした縦長の黒板のようなものに、白と黄色のチョークで「遠藤春人展 12月11日〜12月17日」と書かれている。
 でも、この遠藤春人と言う人が誰なのか、あたしは思い出せなかった。


揺れるの最初へ 揺れる 0 揺れる 2 揺れるの最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前