揺れる-3
「こっちの男の人が遠藤春人だよ。君は彼のことを遠藤クンて呼んでいたんだ。」
ヤマギシは、まるで今横にあたしがいたことを気づいたかのように喋り出した。
「君は日に焼けるのが嫌だと言ってね。なかなか外で写真を撮らせてくれないんだ。」
眉を潜めながら、ヤマギシは自分の思い出を語っているかのように言葉を紡ぐ。
「だからこの写真はとても貴重なものなんだよ。」
この男はいったい何を言い出すのだろう。
あたしは『えんどうはるひと』に写真を撮られた覚えはないし、見たところこの写真だってずいぶんと昔に撮られたものだ。ポートレートの下に貼り付けてある作品紹介によると、1983年にA県でと書いてあるではないか。あたしはA県に行った覚えはないし、ましてや1983年にあたしはこの世にまだ生まれていない。そのことをヤマギシだってよく知っているはずなのに。
どうしてそんなことを言うのだろう。
「イツカ」
ヤマギシが私の名を呼ぶ。
「あたし…そんなの知らない。」
それだけ言うと、それ以上ヤマギシの隣にいるのが耐え切れなくなってその画廊を後にする。
ヤマギシは声も出さずにあたしを見送り、受け付けの女の「ありがとうございました。」と言う声が、その日あたしがそこ
で聞いた最後の言葉だった。
―地面が揺れる。
しばらく見ていなかった夢を、その日あたしは久しぶりに見た。
私は見渡しの良い高台に立っていて、誰かを待っている。少し早く来すぎてしまったようで、待ち人が現れないのだ。私は何度も腕時計を確認する。まだ誰も来る気配はない。
白いワンピースが揺れる。この日のためにこっそり買っておいたのだ。スカートのひだが風にはためく。私はそれを右手で押さえる。
―そのとき、ふいに足元が揺れた。私は地面にしゃがみこみ両手で胸を押さえる。怖くて怖くてたまらない。地面が揺れる。地面ではないように揺れる。揺れる―
そこで目が覚めた。だから今日の目覚めは最悪。もちろんその日の気分も最悪だった。顔を洗って、夢のことを忘れようとしても、昨日の出来事を思い出して、また最悪な気分になる。
ヤマギシは何をしたかったのだろう。
あんなことは初めてだった。
いつもならヤマギシの後についていくと、少し良いことがあって。心が柔らかくなって帰ってこられるのに。
あんなことを言われたから、きっとまたあの夢を見てしまったのだ。これからは、何を言われてもヤマギシの後にはついて行かない。そう心に決めた。
朝食をいつものように簡単に済ますと、大学に行く支度を始める。いつもどおり9:15に準備を終えると黒いコートに腕を通す。…白いワンピースなんて、あたし着たことないな。
今朝の夢、いつも見ていたものと少し違う気がした。なんだか夢の中の感触が、どんどんリアルになっていくようで少し怖い。
家を出ると外は雨降りだった。もう一度部屋の中に戻ると、玄関に立てかけたままの傘を手に取る。モスグリーンの淡い色彩で彩られたシンプルな傘は、あたしのお気に入りのものだ。雨降りはあたしを憂鬱な気分にさせる。せめて気に入ったものを持ち歩きたかったから、一目見た瞬間に思わず買ってしまった。
しとしとと降りしきる雨。水溜りを避けて注意深く歩くあたしの目の前に、紺色の大きい傘がぬっと現れた。