揺れる-2
ヤマギシはためらうことなく、そのビルの2階へと続く薄暗い階段を上がっていく。あたしはどうしたものかと一瞬考えたけれど、ここまで来たのに帰るのもなんだからと自分に言い聞かせ、その後に続く。
白い吐息を吐きながら階段を一段一段上っていくと、16段目を数えたところで何かの視線を感じた。顔を上げると、緑色の観葉植物が私を見下ろしていた。
雑居ビルには似合わない、あたしの肩ほどもある高さのその植物は、日当たりの悪い廊下で一生懸命光合成を試みようとしているように見えた。
「イツカ」
ヤマギシはそう言って手招きをすると、押さえていたドアから中へ入るように目で促す。あたしは観葉植物に心の中でさよならを言ってから、暖房の効いた室内へと足を踏み入れた。
建物の外観からは考えられないほどの快適なスペースが、そこにはあった。
クリーム色で統一された室内。
家具は申し訳程度しか置かれていないが、ずいぶん使い込まれたように思われるコゲ茶色の椅子は、まるでこの部屋のためにあつらえられたようにしっくりと、その場所に置かれていた。
「こんにちは」
入ってすぐ左に受け付けと思われる机があり、白いシャツの上にターコイズブルーのカーディガンを羽織った清潔感のある女が、笑顔でこちらを見つめていた。
「こんにちは」
あたしの代わりにヤマギシがそう答える。
あたしが初対面の人と上手く喋れないのをよく知っているから、僕が代わりに挨拶をします。そういう意図が相手に伝わったのだろうか。女はヤマギシにパンフレットを渡すと、「ごゆっくりどうぞ。」と言って再び微笑んだ。
ヤマギシからそれを受け取ると、あたしは再び室内を見渡す。クリーム色に塗られた壁を飾るように、小さな写真がシンプルなフレームに収まってぱらぱらと飾られていた。
「えんどうはるひと」
ヤマギシが呟いたその言葉が、先ほど入り口で見た名前の読み仮名だと気づくまで、少し時間がかかった。
「知っている人?」
あたしがそう尋ねると、ヤマギシは少し驚いて、それから少し悲しそうな笑顔で頷いた。
「君も知っている人だよ。」
そう言ってフッと写真の前に移動するヤマギシの後を、あたしは慌てて追いかける。いつになく真剣な顔で作品を見つめるヤマギシ。それとは逆に、あたしの心は落ちつかなった。
さっきヤマギシからもらったパンフレットを眺めてみるが、「えんどうはるひと」のプロフィールや顔写真を見ても、何かを思い出すような気分にはならなかった。
「ねぇ、あたし分からないのだけれど、遠藤さんて山岸クンのお友達?」
ヤマギシはくすんだ小さなガラス窓の隣に飾られている作品から目を離さずに、首を横に振る。その対応から、それ以上何かを聞き出すことを諦めると、プロフィールの欄をよくよく見返す。そこには、『遠藤春人1963年東京生まれ』と記されていた。1963年…ということは今43歳。普通に考えてあたしと知り合いだとは考えられない。
あたしに興味を持たせるために、ヤマギシはそんなウソをついたのだろうか。ちらりと視線を送ってみるが、ヤマギシにしては珍しくそれに気づいてくれなかった。
仕方なく、先ほどからヤマギシがずっと見つめている作品に目を移してみる。どこといった特徴もないポートレートだ。映っている女も男も、女の方が多少痩せすぎということを除けばこれと言った特徴はない。
たいていこういったモデルには、キレイな女性だの男性が使われると思っていただけに、少し意外な気がした。