星宿 一章-5
しばらく無言でタバコを吸っていた彼女は、ふたたび口を開いた。
「これで二回目なの。不倫をするのは。前に不倫をしたときにね、もう二度とこんなことはしない、て誓ったの。なのに、どうして繰り返してしまうんだろう……」
煙を吐き出し、コーヒーをごくりと飲むと、また喋りだす。
「……儀式なの。私の。失恋したときはね。こうして、彼が愛煙していたタバコを、夜空に向かって吐き出すの。なんだか、自分の気持ちまで全部吐き出してしまえそうで。こんなことを言うと大げさだ、て言うかもしれないけれどね。なにもかも全部吐き出して、自分をからっぽにできるような気がするの。明日からは新しい自分になるんだ、てね。そう思うの。ねぇ、私、変かな?」
「いや、ちっとも変じゃないです。……それって、前向きでいいと思いますよ」
胸に痛みを感じながら優作は言った。そして、彼女の手からタバコをとりあげると、背中に腕を回し、抱き寄せた。
「は、離して……」
彼女は驚いて離れようとする。優作はタバコを足元へ落とし、彼女をきつく抱きしめた。
か弱い腕で必死に逃れようとする彼女はやがて疲れたのか、抵抗するのをやめ、かわりにぽろぽろ涙を流しはじめた。優作は、彼女を抱きしめたまま、背中をぽんぽんとやさしく叩いてやる。まるで子供をあやすみたいに。すると、彼女は子供のように声をあげて泣き出した。
優作は、そんな彼女をしばらくの間抱きしめて離さなかった。
翌朝、優作は朝食の時間ギリギリに起きた。服に着替えて広間に行くと、おかずや茶碗が乗った盆がひとり分だけ置いてある。
彼女はもう食べてしまったのだろうか。そう思っているところへ、昨日優作を部屋へ案内した仲居が味噌汁を持って入ってきた。優作が彼女のことを尋ねると、仲居は眉を寄せ、ジロリと睨むように優作を見た。
「夜が明ける前に、急用ができたと言って出て行きましたよ」
仲居はぶっきらぼうにそう言うと、乱暴に味噌汁を置き、荒々しく部屋を出て行った。
仲居のそんな態度に、優作は気がついていなかった。彼女がもうこの旅館にはいないということに、衝撃を受けていた。
優作は旅館を飛び出した。細い道を走り、国道に出てあたりを見回す。歩いている人がいないことを確認すると、昨日電車から降りた駅へ走った。
誰もいない改札を抜け、ホームに出て足が止まった。そして急いで周囲を見回すと、がっくりと肩を落とし、膝に手をついた。
彼女はいない。
そこにいた中年女性が顔だけ優作に向けた。まるでめずらしいものを見るような表情で。
走ってきたためにあがった息を静めると、優作は旅館へ引き返した。
彼女の手掛かりは何もなかった。昨日の晩、自分のことはなんでも話してくれているように思えた優作だったけれど、肝心なことは何ひとつ話していなかったことに気がついた。住んでいる街はおろか、彼女の名前さえ知らない。自分がこんな間抜けなやつだったのかと、優作は今まで生きてきてはじめて知った思いだった。
その日、優作は旅館の周辺をひたすら歩いた。三十分ほど行ったところに小さな砂浜がある他は、どこまで行っても民家や畑が広がるばかり。そんな単調な田舎町を、優作は日が暮れるまで歩き回った。心に淡い期待があったのだ。もしかして彼女に会えるのではないかと。でもその期待は、日が沈んでいくのと同時に消えていき、星が輝く頃には絶望へと変化していた。