『定例会』-9
私と彼は、今の間合いを保っていなくてはいけない。もし、これ以上二人の距離が縮まってしまったとしたら、多分、私は彼に恋をしてしまうだろう。あくまで可能性だけれど。でもそれは避けたい。それだけは避けたい。私は、今私が彼に抱いている感情が好きなのだ。それは、優しくておだやかな、もしかしたら永遠に続くんじゃないかと思わせるような、私の感情の引き出しの中にたった一つしかない稀少なものなのだ。でもその気持ちは、その優しさゆえに弱く頼りない。その気持ちが、恋という強く性急な感情に上書きされてしまうのが、恐い。私の彼への思いを、そんな、誰もがいくつも持っている、漢字一字で表されるようなありふれた感情にはしたくないのだ。
前の定例会から一週間くらい経ったころ。私が一人で部屋に居ると、唐突にドアのチャイムが鳴った。
ドアを開けると、この間の私となんか比較にならないほど沈んだ顔をした由香ちゃんがいた。
「どうしたの。」
私が聞くと、由香ちゃんは何も言わずに部屋に入ってきた。
「お酒とかないの?」
由香ちゃんはそう、ポツリと言った。無い、と私が言うと、由香ちゃんは水がないと言われた砂漠の漂流民のように絶望的な顔をした。
「コンビニで何か買ってくるよ。」
由香ちゃんの顔を見ていると、そうしないわけにいかなかった。
とりあえず由香ちゃんを部屋において、いそいでコンビニに行っていくつかお酒を買ってきた。その間、私は由香ちゃんに何があったのかあれこれと想像した。でもどれもピンと来るものは無かった。あの快活で、それでいてクールで強い心を持った姉が、あんなに打ちのめされている。その原因は私の想像力の外にあった。
「ただいま。」
由香ちゃんはコタツに両手足を突っ込んで待っていた。
私は小さめのグラスを二つ用意して、そこにブラディ・マリーとカルーア・ミルクをそれぞれつくった。由香ちゃんにブラディ・マリー、私にカルーア・ミルク。
「乾杯。」
と、とりあえず小さく言って、由香ちゃんはそれを一気に飲み干し、勝手にもう一杯つくった。私も由香ちゃんもお酒にはそれほど強くない。そんな風に飲む由香ちゃんを、私は少し不安な目で見つめる。二杯目のブラディ・マリーもすぐに半分くらい無くなる。
由香ちゃんは何も喋らないし、私も何も喋らない。沈黙は何かを語っていたが、私はそれをあまり快く聞き入れることができなかった。手持ち無沙汰になったので私はリモコンを手にとって音楽をかけた。最近の流行のJポップだ。あまりに流行とかそういうものに疎い私に、友達が貸してくれたものだ。
後ろを振り向かず、前を向いていこう。過去は捨てて、未来を見据えていこう。といったようなことを歌っている。何回か聴いたけど、ちっとも共感できない。過去を捨ててしまって一体何になるのだろう。そもそも、自分とは一体何?体、心、それと、もう少しの何か。それを支えているものなんて、記憶、環境、そんなものだろう。外側から環境に支えられ、内側から記憶に支えられる。
連続した過去を繋げた一本の線、記憶。それは確実に自分の一要素で、しかも要で。記憶を、過去を捨ててなんてしまったら、浸透圧がおかしくなって外側から潰されてしまうのがオチじゃないのか。アイデンティティの喪失。それこそ私たちが恐れていることじゃないのか。思い出は、しっかり飲み込んでしまわなくてはいけない。苦くとも、たまらなく甘くとも。捨ててしまうなんて、決断に似せた逃げで、甘えとまでは言わないけど、懸命に歌にして叫ぶほど素晴らしい選択なのだろうか、と思う。
けれどそんな曲が、この場を和ませると思った。実際、それなりの効果は生んだみたいだ。
「能天気な歌。」
と由香ちゃんが言った。
「香澄ってこんな歌が趣味だったっけ。」
「ううん。友達から借りたの。」
ふうん、とどうでもよさそうに言うと、由香ちゃんはまたグラスにちびちびと口をつけた。
そろそろいいだろう。