『定例会』-7
右手の中指を見る。第一関節の辺り。少し前まではあった、不恰好なペンだこが、もうそこには無い。中学生くらいの時から、私の指にはいつもペンだこがあった。いつも何かを書いていたから。授業中は熱心に黒板の文字を写していたし、友達と遊ぶ時間以外の、一人の暇な時間の半分以上は、小説やなにかを書いていた。
今ではほとんど手で何かを書くことがない。何か文書を作成するとしても、パソコンに頼ることになる。
スラリと綺麗になってしまった人差し指に、私は自己陶酔と自己嫌悪を、大体四対六くらいの割合で感じる。
私の書いたものの読み手になってくれたのは、大体兄だった。中学生の頃の私にとって、七歳年上の兄は、大人というものの表象であり、憧れだった。その兄は私の文章を読んで、実に的確な批評をくれた。子供扱いして、中身の無い賛辞をただ放り投げるということをしなかった。私はそれで、書くことで大人になれた気がしていた。自分の小説を通して、七歳上の兄を対等になれているんだという気がしていた。
だから
作家になるといいんじゃないか。
と、兄が言ってくれた時、私はなんの疑いも無く、それが私に相応しい夢なんだと思った。けど今、私はその夢を九割がた自分から手離している。
昔の自分と今の自分とを比べてみる。少なくとも今の私には、昔の自分のほうが素晴らしい存在に思える。うらやましい、と思う。
多分私は、世の中のいろいろあるもののうち、悪いものばかりを身につけてしまったんじゃないかと思う。昔から私が持っていた善なるものも、その絶対量は変わってはいないだろう。でも後からくっついてきた悪いものに埋もれて、相対的に少ないと感じられるようになった。
こんな風に、昔の自分に嫉妬するなんて、おかしなことかもしれない。だって「私」なのだ。それとも、私はもう昔の自分というものを自分から切り離してしまっているのかもしれない。昔の自分をもう、かつて「私」だった誰か、にしてしまっている。
それじゃあもう、あの時の私は、私の中にはもう居ないのかな。
それは、すこし寂しい。
時計を見ると、店に入ってからもう一時間近く経っていることがわかった。
もう出よう。多分今日は佐藤君は来ない。そんな日だってある。
私はカップに半分ほど残したままにしておいたコーヒーを飲んだ。
時間の味がする。すっかり冷めてしまったそれには、無為にすり減らされた時間の粉が溶けている。それを一気にのどで味わう。注文して、差し出されたばかりの熱いコーヒーとこの飲み物は、もはや別の飲み物だ。この飲み物は、そう、いわば確認のためにある。きちんを自分で時間を飲み込んでしまうための。
立ち上がろうとする寸前、肩を叩かれた。
「やあ。」
佐藤君だ。
「よ。」
「もう帰るところだった?」
私は頷く。
「でも佐藤君が来たからもう少し居ようと思う。」
あまりにも簡単にあまりにも素直な気持ちが口からでる。まったく、佐藤君相手だといつもこうだ。
「へえ、よかった。」
俺も斉藤さんと話したかったから。と佐藤君は言う。
佐藤君は私の隣に座って、コーヒーとザッハ・トルテという小さなチョコレートケーキを注文した。
「なんだか少し沈んだ顔をしてるけど?」
まったく、めざとい。それとも、私は自分が思っているより感情が顔に出ているのかもしれない。
「べつに。」
私はわざと短く言って、鞄の中からCD-Rを出して佐藤君に突きつけた。
「あ、これ俺の。もう読んだんだ。」
私は頷く。
「こんなに早く返してくれなくてもよかったのに。というか別に返してくれなくても、大丈夫だったんだけどね。もとのデータはパソコンに入っているし。」
「いいよ。私も紙にプリントアウトしたし。」
「全部?」
「全部。」
「それは、結構な手間だったろうね。」
「そうしたほうがいい気がしたから。」
佐藤君は「光栄だね」といった感じの微笑み方をした。それと同じタイミングでコーヒーとザッハ・トルテが運ばれてきた。佐藤君は美味しそうにそれを一口ほおばる。