『定例会』-10
「ねえ。」
私はグラスを持ち上げながら言った。
「今日はどうしたの?」
由香ちゃんは、グラスを空にして、今度はソルティー・ドッグの缶を開けてグラスに注いだ。
「彼と別れたの。」
グラスに正確に八分目まで注いでから、由香ちゃんは言った。
「それだけ?」
由香ちゃんは頷く。
正直に言って。私は拍子抜けしていた。
「なんだ、いつものことじゃない。」
思ったことをそのまま口にした。
「そうね。」
由香ちゃんはとりあえず肯定する。
信じられなかった。由香ちゃんが失恋でここまで傷つく? 今まで当たり前のように誰かと付き合っては別れてを繰り返してきた由香ちゃんが。相手を傷つけることはしても自分だけはいつもかすり傷ひとつ負うことなく切り抜けてきた由香ちゃんが。
「ふられたの?」
私は尋ねる。
由香ちゃんは、その質問に首を横に振った。
呆れた。
「自分から別れておいて、そんななの?」
意味が分からない。と私は言った。
由香ちゃんは、グラスを覗き込んで押し黙った。ソルティー・ドッグ水面には小さな泡がプツプツと浮かんできてはいたが、なかなか適当な台詞が浮かんできたりはしない。
「どうして別れちゃったの。」
私は質問を変えた。
今度はソルティー・ドッグの泡に答えが紛れていたみたいだ。
由香ちゃんはゆっくりと、一言一言区切りながら言う。
「きっと、居心地が良すぎたの。ずっと一緒に居すぎた。彼のことを、好きになりすぎた。…致命的に。」
由香ちゃんは、また一気にソルティー・ドッグを飲み干した。
「ねえ、信じられる?私今たまらなく寂しいの。あんたと一緒いるのによ。」
今度は私がカルーア・ミルクを一気に飲み干す。甘い。
これだけの会話で、由香ちゃんの気持ちを理解できてしまった自分が、誇らしくも、情けなかった。
由香ちゃんは恐いのだ。彼と別れること、彼と付き合っていくこと、その両方。あまりにも深く溺れすぎたのだ、彼女は。今まで由香ちゃんは決してその深さまで踏み込むことがなかった。踏み込まないために、自分を陸に繋ぎとめている重石が無くならないうちに引き返してしいた。でも今回は引き返すポイントを誤ってしまった。深いところに入ってしまい、その水圧に慣れてしまった。きっと、その水圧のあまりの気持ちのよさに恐くなってしまったんだ。もしこのまま戻れなくなったら?そして何より、もしもっと深いところまで行って、にもかかわらず突然水面まで放り出されたら?そうなったら多分耐えられない。
だから彼女は、まだダメージが自分の想像力の及ぶくらいのレベルであるうちに、自ら引き返してきたのだ。
戻ってきた彼女は、急な水圧の変化に耐え切れずに、苦しんでいる。
計算外だったのは、それがもうすでに致命的なポイントを過ぎていたということだ。
それならばいっそ…。
「ねえ、由香ちゃん。」
私は自分がとても優しい声をしていることに気付いた。
「彼のこと、好きなんだ。」
由香ちゃんは、とても深く頷いた。
「やりなおしたい、って思ってない?」
由香ちゃんは、その問いには答えず、ただ押し黙っていた。
いつのまにか、曲は止み、六月の霧雨のような沈黙が、部屋の中をしっとりと濡らしている。あらゆるものの色が徐々に濃くなり、重みを増す。
それを晴らしたのは、硬い振動音だった。
由香ちゃんの携帯電話が、リズミカルな光と振動で、着信を主張し続ける。背面のディスプレイには、発信者の名前が表示されている。
由香ちゃんの恋人の名前。
由香ちゃんは、それと、私の顔を何回か見比べる。私はじいっと由香ちゃんをみつめる。
私は由香ちゃんのグラスを奪って、ソルティー・ドッグをゆっくりと飲み干した。
振動は、まだ止まない。永遠に鳴り止まないだろうと思う。