『 臨時バス 』-2
痛む身体をおして、後部座席の床に落ちている鞄の方に手を伸ばした瞬間、鋭い急ブレーキの音とともに、身体が前に投げ出され、床に打ちつけられたと気づく間もなく、滑り出し、バスな真ん中あたりで、背中をイスの土台に食い込ませて止まった。
「お前の人生と同じだな。転げ回って這いつくばって、地べたに面押し当てて、生きるのがよっぽと好きなんだろうぜ。ヒャハッハッハッ……」
運転手は嬉しそうに大声で笑うと、体を小刻みに揺らし、乱暴にバスを加速させた。
痛みで、薄れいく意識を何とかつなぎ止めながら、わずか数メートル先にいる運転手を見上げた。
顔ははっきりと判らなかったが、何かが、頬や首筋を動き回っているのが見える。
虫だった。
アザを煩わしそうに指で掻く運転手の爪は、長く、鋭く尖った鉤爪で、かきむしるたびにその爪が頬や首の肉を裂き、傷口からは血とともにおびただしい数の虫がわき出しているのだった。
その虫は目尻や耳といった部分からまた体内に潜り込んでいく。
叫び声をあげ、無意識に立ちあがった身体が、バスの加速に耐え切れず、また後部座席まで吹き飛ばされた。
「早く答えろ! ちんけなクソばばぁの命と引き換えに、お前みたいなクソ野郎に人生をやり直すチャンスをくれてやるんだ。ハイと言え! 取引だ! 契約を済ませろ! さっさと行きたい場所、行きたい時間を言え!」
怒りを含んだ運転手の声は、いつしか叫び声にかわり、ガラス窓を振動させ、その狂気が実体となって車内に充満していくのがわかる。
鞄を胸に抱き、床にだらしなく身を横たえたまま、私は精一杯の声で叫んだ。
「取引はしない! 誰が何と言おうと私はお前と取引などするものか! だから早くバスを停めろ! 停めて私を降ろすんだ! もう一度言うぞ。神に誓って、私はお前と取引などしない!」
その言葉が合図だったかのように、バスは急ブレーキとともに完全に停車し、後方の乗車口が開いた。
山の冷気とむせるような草いきれがドッと車内に押し寄せてくる。私は転がるようにステップを降り、道端の草むらに倒れこんだ。
見上げたバスは、漆黒の闇の中でぼんやりと浮かびあがってみえた。今にも運転手本人が飛び出してきそうな迫力で、怒声を響かせ、不自然に振動している。
「忘れるな! お前の虫けら同然の人生が、クソ溜まり中で腐って消えるその瞬間まで、今日のことを忘れるんじゃないぞ! おれ様と取引しなかったことを、悔やんで、悔やんで、血の涙を流すんだ! 後悔の念にその身を焼かれるがいい! 忘れるな! 忘れるな! 忘れるな……」
唐突に乗車扉が閉まり、バスはひときわ大きく身震いすると、後輪を滑らせ、小石を巻き上げながら、再び走り出した。
バスは闇の中でいつしか光る小さな点になり、峠を越えたあたりで、フッとその姿を消した……。
私はしばらく草むらに横たわったまま、気がつくと、声もたてずに泣いていた。
その涙は、突然巻き込まれたこの体験への恐怖でも、そして、そこから命からがら助かったことに対する安堵でもないように思われた。