壁時計-9
「あ、う、うっ」
浜本の首に手を回してしがみついた茉琳は、2、3度硬直と弛緩を繰り返し、最後に首をのけぞらせて声にならない声を上げた。川面から一斉に水鳥が飛び立つような音がこだまする中、茉琳の躯は虚空に投げ出された。自由落下をしている感覚の辺境で、なおも浜本が抽送を続けているような気がする。しかし、それもやがてかき消され、次々と押し寄せる快感の頂に身を震わせながら、茉琳は闇の中に吸い込まれていった。
「で、どうだった?」
レストランのテラスで、組み合わせた両手の甲に顎を乗せた春奈が、満紀に向かって流し目を送った。満紀はインドカレーを一口パクついて、
「ん、何ですか?」
と聞き返す。昨夜の浜本との饗宴で寝不足気味の茉琳は、テラスのパラソルの影に入り、それでも目の下のクマを気づかれはしないかとヒヤヒヤしながら二人の話に耳を傾けていた。すぐ前の表通りを、女性の二人連れが通り過ぎる。彼女らが持っている同じショップの手提げ袋のけばけばしい原色が、日光に反射して茉琳の目を射た。
「昨夜の社長との二次会のことよ」
春奈は、わかってるでしょ、というような口調だ。
「ああ、あれ」
満紀は素っ気なく言うと、グラスに口を付ける。
「落とせそう?」
「まぁさか。大勢だったし、サシで話せる機会もあんまりなかったし」
「そうなの」
「それに、そこって、外国人が多い店で、社長、そこで顔が広いみたいで、しきりに客から声掛けられてるんですよ」
「ふーん」
「それで、途中で席立ったから手洗いか何かと思ったら、カウンターのところで女と親しそうに話し込んじゃってて」
「あら」
「それが、すんごくスタイルいい女なんですね。出るとこは出てて、引っ込むとこは引っ込んでて。同じ女としてそばに寄りたくない感じ。モデルかな、ありゃ、きっと」
「もしかして、社長のガールフレンド?」
「そーんな雰囲気、でしたね」
「残念ねぇ」
「あーあ、この会社も、もうそろそろ潮時かなぁ」
満紀はつまらなそうにスプーンを置くと、グラスの水を飲み干した。
「今月末だもんね、契約期限」
春奈がため息混じりに言う。
「狩野さんは、どうするの?」
満紀は、話に乗ってこない茉琳に水を向けた。
「んー、考え中」
茉琳は、手に持ったグラスを軽く揺すりながら言った。溶けかけた氷がカラカラと音を立てる。
「ねえ、三人とも延長しなかったら、問題になるかな?」
春奈が声を潜めて二人を見回しながら言った。
「クレームがいくかも知れないけど、しょうがないんじゃない?」
口を拭いた満紀が、椅子に背をもたせかけた。
しばらく浮かない表情で黙っていた三人だが、その雰囲気を断ち切るように、春奈が明るい声で
「ラッシ、飲まない?」
と聞く。二人は同時にうなずいた。
ランチを終えた茉琳が席に戻ると、岡部がやってきた。この男はいつも笑顔だが、それが茉琳にはだらしなく見える。もっと口元を引き締めた方がいいと思うが、もとよりそんなことを言っても聞く相手ではない。
「狩野さん、話あった?」
必要以上にそばに寄ってくると、そう尋ねてくる。
「いいえ。何の話でしょう?」
「契約延長だよ」
分かっているだろう、というような口ぶりだ。
「まだ、です。多分来週半ばには派遣元と面接があるので、話があるとすればそのときだと思います」
「あんたさえよければ、いつでも正社員になってもらうが」
「それは……」
茉琳は手をこめかみに当てた。ダメ。この男とは1分たりとも、まともに話ができない。
そのとき、聞き覚えのある声で
「こんにちは」
と部屋に入ってくる者があった。岡部がパーティション越しに
「おう」
と呼びかけると、箕田が向こうから近づいてくる。
「次長、ご報告が」
「うん」
二人は奥の部屋に消えた。茉琳はひとまず胸を撫で下ろし、先ほどの出来事を頭の中でプレイバックしてみた。