壁時計-5
「アハハ、私なんて、あなたにとってどうでもいい女じゃない?でも、プレゼンが成功するかしないかは会社の一大事でしょう?」
「いや、こんなふうに親身に相談に乗ってくれて、どうすればいいか……」
「そんなことを考えるよりも、今大事なことは、リラックスすることよ」
「……はい」
「まだ、固いわねぇ。……ねぇ、浜本君は、犬と猫だったら、どっちが好き?」
「そうですね。犬が好きですね」
「私も。子どものとき、何飼ってた?」
「小さいときから犬を飼いたかったんですが、親からダメだって言われて、鳥を飼ってました。中学生になって、シェルティを飼ったのが初めてです」
「シェルティ!ずいぶん可愛いのね」
「ほかの家族の意見が強かったもので」
「よく吠えなかった?」
「吠えましたね。……で、2匹目は僕の意見でジャーマンシェパードにしたんです」
「へーえ」
「番犬になるからって説得したんです。でも、子犬の頃は可愛くて、家族みんなで溺愛したんで人を見ても疑わない性格になってしまって」
「訓練所に入れた?」
「ええ。でも、基本的なしつけだけで、それ以上のことはやっていません」
「そう……」
「狩野さんは?」
「うん、私の場合は、まずミニチュアダックスフンドね……」
茉琳はうきうきした表情で話を始めた。
時が過ぎ、不意に二人の会話が途切れ、沈黙が訪れる。茉琳は、二人の間に流れる優しい空気を確信していた。
「すみません。こんな時間までお引き留めして……」
口をもごもごさせながら浜本が言う。心なしか、顔が赤らんでいるようだ。
「ううん、お誘いしたのは私よ」
「今日は狩野さんに誘っていただいて、うれしいです。話していると、なんだか元気が出てきました」
茉琳は後ろの髪を両手でまとめる仕草をしながら笑った。年上の人妻の色香がこぼれ出るようだ。それに引き込まれるように、浜本が茉琳に顔を寄せてくる。
「……帰したくない」
浜本ははっきりと、そう口にした。彼も、確信したのかも知れない。
茉琳は、髪に当てた手を外した。頭を傾けると、頬に髪がかかる。
「じゃ、帰さないで」
茉琳は浜本の手首の上に自分の手を置いた。浜本は手首に置かれた女の手をもう片方の手で取り上げ、両手で包み込んだ。そしてやにわに席から立ち、かすれた声で早口に言った。
「行きましょう」
婉然と笑みを浮かべた茉琳が立ち上がると、浜本は人妻を引っ張るように出口に向かった。そして、店を出て近くのホテルに入るまで、決してその手を離そうとはしない。茉琳は、その手に、若い男のみなぎるような力強さを感じた。無鉄砲で、どこに向かうか分からないエネルギー。おそらく本人にも御することができなくなっているのだろう。
ホテルの部屋に入ると、浜本は茉琳を抱きしめ、性急に唇を求めてきた。茉琳は浜本の胸に額を当ててそれをかわし、
「待って。時間はたっぷりあるわ。シャワーを浴びてきて」
と声をくぐもらせて告げた。
浜本は女の言葉に、我に返ったようである。腕の力を抜き、申し訳なさそうに
「すみません」
と詫びた。茉琳は顔を上げ、
「大丈夫。ここにいるから、心配しないで」
と囁いた。自分を見上げて微笑む茉琳の顔を見て安心したのか、浜本は
「じゃあ」
と言うと、浴室の方に消えた。
茉琳は、部屋を見回した。落ち着いた色合いの調度品、趣のある壁の絵、ベッドの不釣り合いな大きさを除けば、なかなか洒落ている。
茉琳が鏡に映った自分の顔を見ていると、その鏡の左上隅に、バスローブを引っ掛けた浜本の姿が現れた。
「あら」
もう出てきたの、という言葉は呑み込んで茉琳は浜本の方を振り返った。
「素敵な部屋ね」
茉琳が笑いかけると、浜本は半分笑ったような、そうでないような曖昧な表情をした。
「待ってて」
浜本とすれ違うときにそう声を掛けた茉琳は、浴室に入ると錠を下ろした。そこは、明るく広い。茉琳はバスタブに湯をたっぷりと満たし、熟れた裸身を横たえた。