壁時計-11
「うちのある幹部が社の広告宣伝費の一部を自分の懐に入れているらしいんです」
箕田は、手に口を軽く押し当て、くぐもった声で言った。その「幹部」が誰だかピンときた茉琳は、うつむき加減の箕田の顔をのぞき込む。
「そのこと、ご存じなのは箕田さんだけですか?」
「ほかに何人か気づいているかも知れないが、分からない」
茉琳は手の甲を顎の下に当て、小首をかしげて言った。
「社長に報告すればどうでしょう。確かな証拠はあるんですか?」
「それが手口が巧妙で、なかなか尻尾をつかめない。先日、本人にそれとなくおかしいところを指摘したんだが、上手くかわされてしまって」
箕田はため息をついた。
「そうですか」
茉琳は、あのとき箕田が岡部のところに来たのはそのためだったのか、と自分の推測を確信めいたものに変えながら言った。
「いや、でもこの書類に証拠が隠されているかも知れません。よく探し当ててくれました」
箕田の口調は、自分を励ますかのように明るかった。
「変なことをお願いして、すみません」
食事を済ませた二人はファミリーレストランを出て、近くのコイン駐車場に歩いていった。車で家まで送るという箕田の申し出を茉琳が受けたのだ。助手席に座った茉琳は、短めのスカートから剥き出しになる膝の上にハンカチを置いた。
「今の時間なら、30分もかからないと思います」
箕田はそう言って車を出した。先行する車や路肩、遠景の高層ビルに、同じような赤いランプの色が見える。あるものは一瞬のうちに流れ去り、あるものは点滅し、またあるものは静止していた。
「ベルギーに行ったことがあるとか」
前方を見ながら、箕田が言った。
「え、どうしてそれをご存じなんですか?……あ、マキ、じゃなくて打越さんから?」
箕田は茉琳の慌てぶりにおかしくなったか、口の端に微笑を浮かべてうなずいた。
「そうです」
「やっぱり。……はい、自転車レースを見に行ったんです」
茉琳の脳裏に色鮮やかな映像が駆けめぐった。夫との新婚旅行。それは、今までの人生で最も美しいひとときだったかも知れない。二人は、もう二度と離れないと誓ったつがいの鳥のように、さえずり合い、互いの羽の中で休らった。
「自転車、ですか」
「ええ。あの国は、自転車レースが盛んなんです」
「ほう」
「あの、ツール・ド・フランスって、ご存じですか?」
「ああ、聞いたことありますね」
「あれって、スタートするのがベルギーなんですよ」
「へええ。フランスだけを回っているんじゃないんですね」
「はい。ベルギーの、リエージュという町なんです」
「リエージュ!」
「ご存じですか?」
「行ったことがありますよ。もう何年前になるかなぁ。あの町の南の山ん中にスパ・フランコルシャンていうサーキットがありまして、これは自動車の方なんですが、そこにレースを見に行きました」
「そうですか」
「テレビで見てますと綺麗な丘陵地帯ですが、実際歩いてみると結構ハードでしたね。おまけに天候がころころ変わって、晴れてたかと思うと急に雨が降り出したりして」
「何泊されました?」
「2、3泊かな」
「あそこって町も綺麗だし、ワッフルがとってもおいしいんですよ。ベルギーワッフルの発祥地なんですね」
「町はそんなに見なかったなぁ。宿とレース場を往復しただけで」
ひとしきり楽しい会話が飛び交う。その間にも、なんともいえない馥郁とした香りが車内に充満し、二人の心の奥底に潜む肉の欲求をかき立てていた。ファミリーレストランを出るとき、茉琳がハンカチに、こっそりネロリの精油を垂らしていたのである。
不意に会話が途切れ、数分後、箕田は桜の並木道のところで5ナンバーのセダンを止めた。左側は歩道を挟んで広い公園になっている。左右を見回し、道を確かめているような素振りを見せた。あるいは、近くに人通りがないのを確認したのかも知れない。
「このあたりかな……どうですか?」
そう言って助手席を見た箕田は、茉琳の視線とぶつかった。少し瞳が潤んで、その奥から妖しい光を発している。ややあってうつむいた茉琳は、右側にかかっている髪を掻き上げて背中の後ろにやった。そして、膝に置いたハンカチを取り上げ、耳の後ろからうなじにかけて2、3度そっと押し当てた。
「あ、もう、ここでいいです。すぐですから」
ゆるゆるとシートベルトを外そうとした茉琳の手を、箕田は左手でがっちりと押さえる。そして、右手で自分のシートベルトを外し、肩をくぐらすようにして助手席に身を乗り出すと、驚く茉琳の唇を奪った。いったん離れてはまた重なり合う。茉琳の躯は、男の舌の侵入を許すと同時に力が抜けていく。箕田は右手で茉琳の胸をまさぐった。茉琳の唇から甘いため息が漏れる。箕田の舌が茉琳の耳から首筋にかけて這うと、それは悩ましい呻き声になった。女の声にますます肉欲の炎をかき立てられた箕田が右手を茉琳の下半身に置き、スカートの中に入れようとしたとき、茉琳は囁いた。
「私は大丈夫。もうびしょびしょよ」
茉琳は左手で箕田の股間を探る。じとっとした熱とともに、その指は凝固したものを感じ取っていた。