壁時計-10
−契約延長……か。
この会社で働き続ける意思はなかった。それより茉琳は、いつまでたってもはっきりしない「夫」との関係を整理しなければならないと思っていた。でも、そのためには……
思い悩みながらインプット作業をしていると、しばらくして、奥の部屋から人の出る気配がした。素早く頭を切り換え、腰を浮かせてパーティションの向こうを見てみると、予想どおり出てきたのは箕田である。茉琳は席を立つと、なんでもない振りを装いながら後を追った。廊下に出てからは早足になる。
「箕田さん」
茉琳が背中に呼びかけると、振り返った箕田の目は意外に鋭かった。その視線に射すくめられ、立ち止まった茉琳はおずおずと箕田を見上げる。
「あ、あの……」
「ああ、昨夜の」
茉琳が誰だか分かると、みるみる箕田は表情を柔らかくした。ハンサムとは言えないが、浅黒い温顔である。
「はい。狩野と言います。昨夜は、ありがとうございました」
茉琳は深々と頭を下げた。
「いやいや、あんなこと、そんなお礼を言われるようなことじゃないですよ」
箕田は手を振った。
「狩野さんのことは、同じ部屋の打越さんから聞いています」
打越とは、満紀の名字である。
「あら……」
茉琳はさっと頬を朱に染めた。満紀は同じ部署に箕田がいるとは話したことがない。彼女は茉琳のことをどういう風に箕田に話したのか、見当もつかない。
箕田は、茉琳の心中を推し量ったか、それ以上その話題には触れずに
「この会社には、先月からでしたか?」
と聞いてきた。
「いえ、先々月からです」
と答えると
「そうですか」
と言ったきり、窓の外を向いて黙ってしまった。茉琳はその横顔に引き込まれ、じっと見つめていた。
「広告宣伝関係のアグリーメント、って分かります?」
箕田は窓の外を見つめたまま、独り言のように言った。
「はい、分かります」
茉琳は静かに答えた。その言葉に、尋ねた箕田の方が驚き、目を丸くして茉琳を見た。茉琳はその視線をしっかりとらえて言葉を続けた。
「つい先週まで、アグリーメント関係のファイリングをしていましたから」
真向かいの席に座った3人の若い女性が、運ばれてきたホットドッグやフライドポテトには目もくれずに、化粧に夢中になっている。目の前の箕田も、食べるのはそこそこに、茉琳が手渡したファイルの中の書類に目を通し始めた。鋭い眼光で次々と書類を読んでいく箕田の険しい雰囲気に押されて、茉琳は自分だけ食事するのもはばかられ、手を膝に置いてその様子を見守っていた。
夜の8時に、新橋駅近くのファミリーレストランに来てくれ、と言われたときはびっくりした。何とも奇妙な申し出だった。
「無理ですか?」
という箕田の問いに、
「いいえ、大丈夫です」
と答えたのは、密事の共犯めいたものに対する興味だったからかも知れない。茉琳はいったん自宅に戻るとじっくりと風呂に入り、念入りに身支度をして出直してきたのだ。
やがて箕田は顔を上げ、茉琳の顔を見た。何かを言いかけたとき、
「キャー、クミ、こっちこっち」
「エエーッ、ホントにクミ?信じられなーい」
と箕田の後ろで甲高い歓声が聞こえた。髪から服からけばけばしい色をまとった一人の若い女が入口の方から駆けてきて、
「久しぶりー。元気だったぁ?」
と声を掛け、もといた3人の輪に加わる。4人の間で音量の高い会話が始まった。
箕田は頭の後ろを掻いた。
「ちょっと、場所が悪かったですかね」
それは二人の座った席の位置が悪かったというのか、そもそもファミリーレストランに入ったのがよくなかったというのか、意味がつきかねた。茉琳は「いいえ」という言葉を声に出さずに口の形だけ作りながら、首を横に振った。
「これで、全部ですか?」
本題に戻り、箕田は聞く。
「その年度のは、これで全部です」
「そうですか。ありがとう」
箕田の声は低かったが、力がこもっていた。
「箕田さん、どうかされました?」
茉琳は、今までずっと抱いてきた疑問をぶつけた。箕田の頼みで指定された書類を持ち出した茉琳だが、なぜ自分の会社の書類を見るのにこんな風にしなければならないのだろう、と不思議に思っていたのだ。
両肘をテーブルにつき、組んだ手に顎を乗せた箕田は、どう話したらよいか考えているようだった。そのとき、若い男が2、3人次々と、二人の座る席の脇を通り過ぎる。彼らは茉琳の向かいの席の女たちと同じ仲間らしく、静かにその隣の席に着いた。女の中の一人が立ち上がって男たちの間に割り込む形で座ると、一人の男と小声でしゃべり始めた。あとの女たちも電話を取り出して、その画面に見入ったりしている。人数は増えたが、かえって静かになった。