『 肌 』-2
※ ※ ※
この登山を計画したのは友人だった。
冬山の経験もあり、三千メートル級の雪山で遭難した時には、凍傷で小指を失ったと豪快に笑っていた男。
しかし今回選んだ山は、そんな過酷な環境にはほど遠く、未開の自然がひろがる僻地、というわけではなかった。
私は自分の寝床で胸を喘がせながら、檻のわずかに外、黒くにじんで見えるある物から、目が離せなくなっていた。
心の奥底ではわかっていても、確認するのが怖い。信じたくない。
私は寝床を這い出て、誘われるように、少しづつ近づいていく。その輪郭がはっきりするにつれ、私は息が出来なくなった。
一本、二本、三本、四本……。
それは友人の腕だった。
一本足りない指が何かをつかむように宙を掻いていた。
悲鳴を聞きつけた〈看護者〉が檻を開け近づいてくる。
私は拒むように手を前に突き出し、相手の腕をつかんだ……。
※ ※ ※
腕をみつけた日から丸々二日、私は寝床に横たわり、与えられるままに水を飲み、肉を噛んで過ごした。
生き延びなければならない。
そのためには、わずかでも体力を蓄え、目の回復に専念するのが一番だった。
単純な話だ。
美味く喰うには、寸前まで生かしておいた方が新鮮でいい。
怪我で死んで早々と腐ってしまったり、病気で痩せ細ってしまっては、美味くないに決まってる……。
朝が来て、食事が済んだら、逃げだそうと決めていた。
最後の水と肉を飲み下し、〈看護者〉が出ていくと、私は静かに泣いた。
友人がその身をもって私の命を救い、この世につなぎ止めてくれた。
私は彼の肉を喰わされていたのだ。
私は震える手で、原始的な仕掛けの閂を壊し、扉を開け外に出た。
まだ薄ぼんやりとしか見えなかったが、それで十分だった。
私は、檻の背後に鬱蒼と生い茂る森の中へ、ゆっくりと踏み込んでいった。
※ ※ ※
この世界が私の知っている世界と根本的に違うのは明らかだった。
あの深い霧が、あの地震が、私と友人をまったく別の世界に放り出したに違いない。
生き延びよう、たとえ一日でも。
草をかきわけ、崖を滑り降り、沼地に足をとられながら、私はもう、この世界の一員になるしか道はないことを知った。
そして、一分一秒でも長く生き延びるのだ。
私はこの命がなくなるその時まで、決して忘れないだろう。
〈看護者〉に向かって闇雲に伸ばした手が、つかんだ、冷たく、湿った、幾層にも重なる、鱗におおわれた、あの〈看護者〉の『肌』のことは……。
End