『 霧 』-1
バーバラはテムズ河の河辺に建つ、古いアパートの2階の窓から、霧に沈む夜のメインストリートを眺めていた。
12月に入り、めったに晴れる日がないこの季節は、客をとるために、夜、通りの角に立つのは辛い。
安物の毛皮を羽織っていても、ギリギリまで胸元を開き、痩せた足を丈の短いスカートからこれみよがしに露出していては、一時間もせずに凍えてしまうだろう。
早々と客が――路地裏や車の中でことを済まそうとする輩じゃなく、安宿でも暖かいベッドと強い酒を飲ませてくれる客が――つかまればいいのに……。
バーバラは壁に掛けた鏡で化粧をチェックすると、灯を消し、部屋を出て軋む階段を降りていった。
バーバラが、今夜の仕事を躊躇する理由は寒さばかりではなかった。
ロンドンのこの界隈で、8月の終わりから11月の半ばまで、わずか70日あまりの間に、娼婦ばかりを狙った殺人事件が5件も起きていた。
5人とも首を締められ殺された後、腹や首を鋭利な刃物で切り裂かれている。
娼婦に対する怨恨か、狂人の為せる業か、警察当局が血眼になって探しても、目撃者一人見つけだせない、夜の霧に潜む姿なき殺人者に、マスコミはジャックと名付け、こぞってセンセイショナルに書き立てていた。
仕事があがったりだわ……
バーバラは毛皮の胸元をかきあわせながら、いつも客引きをする1ブロック東のガス灯にむけて足早に歩いていった。
それにもう一つ、バーバラには気掛かりなことがあった。
このところ夜、仕事に出ると決まって誰かに視られてるような気がするのだ。
街は霧に溶け合い、数ブロック先は霞んで定かではないけれど、通りの角、路地の暗闇、締め切った窓のカーテンの隙間から、じっと見張られてるような気配がする……。
ジャックのせいね。
こんな夜は、稼ぎがなくても、寒さをしのぐ人肌がなくても、帰って一人で寝たほうがマシかもしれない。
なんならご同業のマギーを誘って、安っぽいゴシップを酒の肴に、朝まで飲み明かしてもいい。居もしない影に怯えるなんて馬鹿げてるわ。
いつの間にか小走りになっていたバーバラは、立ち止まりバッグから煙草を取り出すと、口に咥え、震える手で何度も何度もマッチを擦った……。
車が何台か通っただけで、人の通りはなく、夜が更けるにしたがって寒さは増して、霧はどんどん濃くなっていった。