『 霧 』-2
今夜はもうダメね……。
バーバラが諦めて帰ろうとした時、突然、甲高い女の悲鳴がわき上がった。
声は狭い路地にこだまして、どの方向から聞こえてきたのかわからない。
ジャックだわ! 誰かが襲われてる。マギー? ベティ? それともダイアン?
バーバラは車道に飛び出すと左右を見渡した。乳白色の霧の中に微かに浮かび上がるガス灯の灯。
また短い悲鳴が上がった。
バーバラは勘を頼りに東に向けて走り始めた。
石畳の道にヒールの音が響く。
マギーがいつも立っている通りまで来ても人影はなかった。建物の角を左に曲がって立ち止まり、耳をすます。
すぐそこの路地から何かが倒れるドサッという音が聞こえてきた。バーバラは恐る恐る近づくと、路地の奥を覗きこんだ。
そこにマギーがいた。
仰向けに倒れ、目を見開き、こちらをじっと睨んでいる。 その白い首からは勢いよく血が噴き出し、濡れた石畳に丸い血溜りを作っていた。
そしてその向こうに、ジャックがいた。
深い霧の中に浮かび上がる黒い影。
その影が膨らんだかと思うと、次の一瞬グニャリと崩れ落ちて、霧の底で蠢く黒い塊になった。
持つ手を失ったナイフが石畳に落ちて、耳障りな音を立てる。
その意味を悟った時、バーバラは何もかも捨てて逃げ出していた。ヒールは折れ、靴が脱げる。止めようのない悲鳴に肺は焼け、痺れた頭で繰り返し繰り返し考えていた。
逃げられない!
あれがジャックなら、ロンドンに住む人間は誰一人、この恐怖から逃げることは出来ない……。
突然、道が行き止まりになった。
間違った路地に入り込み、三方を壁に囲まれた袋小路に追い込まれてしまったのだ。
慌てて引き返そうとした時、路地の入り口から、濃い霧が流れるように迫ってきた。
ドライアイスの煙のように地を這うその《霧》は、冷たくふんわりとバーバラの足首に絡み付くと、突然凄まじい強さで、その足を締め付け始めた。
身動きができず、徐々に身体を這い上がる《霧》の中に、バーバラが最後に見たものは、鈍く光るナイフの切先だけだった……。
End