『空』という名の鎖-1
1 もうちょっとで、唇が触れる…そう思った…だけど
あの時ヤツは、薄く笑みを浮かべて、確かにこう言った。
「伊織…困るよ…そういうの」
困惑…というより、引いていた…
まさに、俺がフラれた瞬間だった。
その瞬間、俺は、咄嗟に顔中に笑顔を綻ばせ、声まで上げて笑ってみせる。
「なんだよ、陽依都(ひいと)。キスでもすると思ったか?」
なんて大声で叫びながら、羽交い絞めにした彼の首に腕を巻きつけ、キツク締め上げる。
『なんだよ…ばか』と、俺の腕の中で小さく呟く陽依都の頭のてっぺんを、拳でグリグリして、俺は溢れる気持ちと、涙を飲み込む息苦しさに耐えながら、尚も、唇の端を吊り上げて笑おうと努力していた。
ダメだ…苦しくて、痛くて……辛くて…吐きそうだ……
「伊織、もう、帰ろうぜ」
音もなく真後ろに聳え立った陽依都は、グランドへと続く長い階段の途中に腰を下ろして、ジッと眼下を眺めている俺にそう言った。
俺は膝に肘を付いた状態でピクリとも動かないでそのままグランドを見据えていた。
はぁ〜っとため息をつく音がして、
「なぁ、伊織。そんなに未練があるんなら、何でサッカー部に入らないんだ?小学校からやってるんだ。続けなくちゃ、もったいないだろう?」
彼は俺を見下ろし、そう、のたまった。
立ち上がって、そんな戯言を言ってのけた陽依都の胸ぐらを掴んで
「お前のせいなんだよ!!」
と言って……やりたかった。
だが実際は、静かに立ち上がると、お尻の土をパンパンとはらい、陽依都を無視してのろのろと階段を上がりだす俺。
後ろからトコトコとついて来る陽依都の気配を感じ、小さく舌打ちをする。
入学式の日に配られたクラブの入部届けの小さな紙を脳裏に浮かべ、提出期限が迫っていることを思い出した。
「お前はもう入部届け出したんだろ?美術部」
「…いいや」
思いもしなかった回答に思わず足を止めて振り返る。
「いいや…って、おい、将来有望視されているお前が、何を迷うことがあるんだ?早く出さないと。期限は確か明後日だったんじゃないか?」
「そんなことは、わかってる…だけど…」
覗き込んだ彼の顔は、明らかに困惑していた。節目がちになりながら、はぁっと再びため息を吐き捨てた陽依都。
柔らかい前髪が風に踊る。
「『だけど』…なんだよ。絵を描いている時が一番好きだって言ってたじゃないか」
ぎこちなく背けられた顔に西日が射して、半身が影になる。
それが、異様に寂しそうに、それでいてとても艶っぽく見えた。
「陽依都」
「…」
「陽依都!」
梨のつぶて状態の陽依都の態度に苛立ちながら、俺はガックリと落とされた肩を掴んで、その細長い身体を自分の方へ向かせようと腕に力を入れた。
すると、その途端、俺の腕は、あっさりと掴み取られ、足首をはらうように蹴られたかと思うと、意表を付かれた身体は、あっという間に後ろ側へ転倒する。
慌てて目を閉じて、身体を強張らせたが、倒れ込んだその背中には、さほど衝撃も痛みは感じなかった。
そっと目を開ける…と同時に、自分の身体の置かれた状態を把握した俺は、絶句した。
俺の身体は、陽依都に倒された拍子に、歩いていた通りを外れ、体育館の階段下の小さなスペースに押し込められていた。
ペタンと地べたに尻もちをついた俺の両腕は、陽依都に掴まれたまま、耳の横辺りで、壁に押え付けられ、封印されている。
俺の手首を掴んだまま、ピンと腕を突っ張って、その腕に全体重をかけている陽依都。
そんな状態では、俺が下でどんなに足掻いても、陽依都の身体はびくともしない。
「なんだよ、離せって!」
「やだ」
…『やだ』ったって…おい…
焦り、困り果てて、パニックになりながら陽依都を見上げると、日の当たらないヒンヤリとした空気の中に、今にも壊れてしまいそうな表情の陽依都がいた。
その顔に、焦りも闘争心もすっかり削ぎとられ、俺は脱力する。
「どうしたんだよ、陽依都。何かあったのか?」
「どうして?」
間髪入れず、詰め寄るように問い返されて、息を飲み固まってしまう。
「どうして…って…な、なにが?」
「伊織はどうして…どうしてサッカー続けないのさ……」
「それは、……それはぁ―……」
一番イタイ部分を突かれた。