『月を見る者』-1
月面基地を離れるのは40年振りだった。
《静かの海》にある通信センターで長年技師として勤めあげ、退官後は事務を、2年前からは衛生部で下働きをしていた。
資源開発の中心が月から火星に移るにつれ、基地での仕事は減り続け、私のような年寄りには居場所がなくなり、地球への帰還命令が出たのは、一週間前のことだった。
「じいさん、あんたもご帰還かい。帰ったところで、行くあてなんかないだろ」
地球への定期便のタラップを上がる途中で、トビィーが声をかけてきた。
機関部で就業中に事故に会い、片腕を失ったこの男もまた、同じ便で強制送還が決まっていたのだ。
「何とか粘ってはみたんだが、無理だったよ……」
私は背中のバッグを揺すり上げる。
「こんなとこに長々といるもんじゃない。地球で気楽に余生を送った方が身の為さ。年金もたんまりと頂いたんだろ?」
この騒がしいほどに快活な男の顔に一瞬、蔭がよぎった。
「それに、あの娘のこともあるしな……」
トービィは私の肩を叩くと、豪快に笑い、自分の席を探しに奥に消えていった。
娘の名はレイホウといった。
衛生部の看護士で、私にとっては孫ほどに歳の離れた、気立ての良い、優しい娘だった。
下働きの私にもあれこれ世話を焼いてくれ、単調で殺伐とした基地の生活の中で、唯一心癒される相手だった。『火星に住みたいの』と口癖のように言い、誰もが皆、手の届く夢だと信じていた。
そう、自殺するまでは……
搭乗手続きを終え席に着くと窓から外を眺めた。
満天の星空の下、空港施設が広がり、ドーム型の基地が見え、その向こうには低い山並みが延々と続いている。
音の無い酷寒の世界。娘はどんな想いで、一人、盗んだ地上車を基地の外に走らせたのだろう。宇宙服も着けずに車のシールドを開けた時、娘の目にはいったい何が見えていたのだろう……。
「シャトル15便はまもなく出発します。シートベルトを着用して下さい。繰り返します。シャトル15便はまもなく…」
ベルトを装着すると、私は胸に手を当てた。
内ポケットには一通の手紙が入っている。
死ぬ間際に彼女が私に宛てた手紙である。その中には、震える滲んだ文字で、ある男に恋をしたこと、そして愛したこと、相手の子供の孕んだこと、そのことを男に告げた途端、飽きられ、捨てられたことが簡潔に綴ってあった。
そしてその男――アルバート・ランドル――はこのシャトルの2級副操縦士だった。
シャトルの凄まじい加速に耐えながら私は、復讐など出来るのだろうかと考えた。