■LOVE PHANTOM ■一章■-1
男は何を見つけたのか、十分程前からその場で立ち止まったままだった。その外見から見て二十歳前後で、背はそう高くはなく、真っ白な顔にあるその瞳は、冷ややかにかがやいている。周りは思わず見上げてしまうほど高い商店街で囲まれ、足早に歩く人々が男を避けて行った。そんな中、彼の視線は真っすぐに、大きな道路を挟んだ向こう側の歩道へと向けられていた。この二本の歩道はまるで鏡のように見える。向かいでも、たくさんの人が足早に、自分たちの目指す目的地へと進んでいる。せわしなく色は流れていた。しかし、鏡には男は映ってはいない。そう、あちらには立ち止まる人間はいなかったのだ。男の瞳はゆっくりと右へ動いた。
「見つけた」
そう呟くのとほぼ同時に、男はガードレールをヒラリと飛び越え、車道へとゆっくり歩きだした。その間、彼の顔付きは変わることはなかった。とっさの出来事で、驚いて避けて行く車たちにも、男は恐怖する気配もなく・・・ただ前を向いたまま歩き続けた。
瞬間。一台の乗用車が、彼を避けずに突進してきた。前を向いていなかったのだろう。そのスピードは、落ちる事なくめがけて突っ込んでくる。
運転手はふと前を向き、目の前に立つ男の姿に驚いて、とっさにつかんでいたハンドルを切った。しかし間に合う訳がない。気がつくにはあまりにも遅すぎたのだ。乗用車は右のガードレールへとぶつかった。キキィッという激しいスリップの音の後で、ガガガ・・という激突音が辺りに響き渡った。車体はガードレールをぐにゃりと曲げ、そこにがっちりとはまっている。ボンネットからは細く煙が立ち、運転手はゆっくりとそのドアを開けた。
そこには、さっきの男の姿はなかった。あるのは激突音に誘われてよってきたやじ馬だけである。
「すごいね。ねぇ見てよ靜里。あの車ぺしゃんこよ。」
幸子はつぶれた車と、それを見て頭を軽く掻いて、苦笑している運転手を指さしながら歓喜の声を上げた。 その声は空気に波を作り、音となって人々を沸かせた。一人、二人と、事故現場へ足を寄せる人数が増えていく中、靜里は決して周りと同じ目の色をしてはいない。それどころか、隣に立つ幸子に呆れ果てたという表情を見せている。
「そんなに笑ったら悪いわよ。もう行こう。見ていてもどうにもならないんだから」
そう言うと、靜里は自分だけすたすたと歩きだした。長い栗色の髪の毛が、風に乗ってしなやかに揺れている。
「ちょっ、ちょっと待ってよ。もうちょっと見ていこうよ。めったに見れるものじゃないよ。」歩きだした靜里を追いかけて幸子が言った。
「駄目。見られている人だってかわいそうじゃない」
まわりこむ幸子を避けて、笑いながら彼女は歩いて行く。
靜里にとって交通事故など何の興味もないことだった。それは誰が死んでも、自分のことでない限りは、何の興味も生まれないという意味ではなくて、自分が側で見ていても何もしてやれない。むしろそれは、場合によって逆に相手を傷つけたり、苦しませたりすることに繋がるからだった。そして、さっきの事故はそれに当てはまっていた。
彼女は、人を軽い気持ちで哀れむのが嫌いだった。だれも、どんなに人をかわいそうだと思ってみたところで、相手の苦しさを完全に、いや、ひとかけらでも分かってやるのは難しい。靜里はそれを知っていた。
一度言い出したら、断固その考えを曲げようとしない靜里の説得に諦めたのか、さっきまで騒いでいた幸子も静かに彼女の横についている。幸子は、それほど背も高くはなく、脱色された短い髪に、濃いめにルージュをひいた唇から、一目では靜里の友人とはとても思えない容姿であった。
「そういえば幸子、あしたの講義 何時からだっけ」
突然、思い出したように靜里は幸子に言った。
「えっと・・たしか二時半からだと思ったけど」
「そっか」
「どうかしたの」
幸子は、のぞき込むようにして靜里の顔を見た。
すると俯きがちな彼女は笑いながら「買い物に行こうかな」と呟くようにして言った。