落書き-1
(もう、一年か。早いもんだな)
雑巾を絞りながら、佐上ナナサは、ふと思った。
まだ誰も来ていない、大島呉服店のトイレの中だった。
入社してから一年たった今でも、ナナサは店の中で一番の下っ端だった。
なので、先輩社員が来るまでの三十分の間に、店内の畳や座売り、鏡などを綺麗にして開店の準備をしていなければならなかった。
途中、何度か自分と同年代の女性が入社してきたものの、全員半年と続かずに辞めてしまっていた。
女同士の相性が本当に難しいものだと知ったのは、この呉服屋に勤めてから、退職する人たちを見てからだ。それまでのナナサは、自分にその気があれば誰とでも仲良くなれるものだと、本気で信じていたのだった。
絞り終わった雑巾を空のバケツの縁にかけると、ナナサはトイレを出て、ゆっくりと店頭へ進んだ。静かだ、とナナサは思った。店内は、まるで放課後の校舎のように閑散としている。ナナサはこの静かな空気が好きだった。
「変なの……」
と、ナナサは呟いた。
「何で私、ここにいるんだろう」
店頭に飾られた、マネキンの訪問着を指先でそっと撫でてみる。一年間、触れてきた感触だ。
ナナサがこの仕事に疑問を持ったのは、一昨日の夜。高校の同級生だった中田ミサキからの一本の電話がきっかけだった。
「うわぁ、ナナサ久しぶりだね。元気だった?」
昔から元気だったミサキは、三年たっても変わらずはつらつとしていた。
「うん。ミサキも元気そうだね。久しぶり」
「もういっぱいいっぱいよぉ」
と、受話器の向こうでミサキが笑う。
つられてナナサまで笑ってしまった。
「いまさぁ、私、塾の先生してるのよ」
「へぇ、そういえばミサキって昔から先生になりたがっていたもんね」
携帯を耳に当てたまま、ナナサはキッチンの冷蔵庫を開けた。中からきんきんに冷えた缶ビールを取り出す。酒の味を覚えたのは、仕事についてから。つまり、こうして一人暮らしを始めてからだ。
「でもさぁ」
と、ミサキが言った。彼女の声に重なるように、 TMNetworkのセルフコントロールが聞こえてくる。そういえば、ミサキは、休み時間にはよくあの曲をCDプレーヤーで聴いて口ずさんでいたのだった。彼らの解散であれだけ泣いたのだ。昨年の再結成がミサキにとってどれだけ嬉しかったか、ふと想像してしまって、思わずナナサは吹き出しそうになってしまった。
「あんたの夢に比べたら、私なんてちっちゃいちっちゃい」
「え?」
その一言に、ナナサの心臓はひりついた。
夢。……私の夢。
「がんばってるんでしょ?デザイナーの勉強」
ナナサは言葉に詰まって、ようやく出した言葉は濁ってしまっていた。
それから何かを感じ取ったのだろう。受話器の奥から、慎重さがひっそりと忍び込んだ。
「まさか、諦めちゃったの?」
しずしずと、ミサキが訊いてきた。
ナナサは無意識に頷いていた。
「なんで?あんなになりたがっていたじゃない」
傷ついたような声で、ミサキは言った。
何故夢を諦めたのか。そんなことは、ナナサ本人にもさっぱり分からなかった。そもそも、いつ諦めたのかさえ分からない。ただ、周りの目もあるのでとりあえず適当な仕事につき、それをこなしながらデザインの勉強をしていくつもりで気がつくと忘れていた。そんな感じだった。
「ごめん」
と、ナナサは言った。
「今ね、呉服屋さんなの」
「もう、追わないの?自分の夢」
間をあけて、ミサキが言う。
ナナサは再び言葉に詰まってしまった。
ふぅん、という声が聞こえた。
「ちょっと残念。ナナサなら夢をかなえると思ったんだけどね。ほら、よくさ、私の家へ泊まりにきた時とかさみんなで話したじゃない。将来のこととかさ」
「チナツやミミと四人でね」
ゆっくりと、ナナサは言った。
「そうそう。チナツは作家。ミミはいい男をつかまえる事だっけ?まぁ、あれは夢じゃないようなきもするけど」
「そうね」
と、ビールを喉へ流し込む。