『滑落』-1
もう一歩も動けなかった。
山岳救助の要請があった時点で、西側の峰から沸き上がる雪雲にもっと注意を払うべきだった。
ペアの沢崎と遭難者の遺体を収容したあと、戻りの尾根で吹雪に巻き込まれ、待機所まで、あと数百メートルという地点で立ち往生してしまったのだ。
後方の沢崎にウェイティングのサインを送ると、私は搬送用のザイルをきつく手に巻き付け、腕を組み、背を丸めて、『待ち』の体勢になった
視界はますます悪くなっていくようだった。前方の尾根道は吹雪にかき消され、後方、搬送用ソリを真ん中にして、ザイルで繋がれているはずの沢崎の姿が、吹雪の向こうで薄い影になっている。
――ホワイト・アウトだな――
私は足場を固め、より姿勢を低くした。このままでは平行感覚まで失いかねない。緩んでいたザイルを引いた瞬間、手に伝わる感触にパニックを起こした。
流されている!
わずかづつではあるが、北の谷側にソリが動き始めていた。
ソリのすぐ後ろにいる沢崎が気付かないわけがない。奴もまた吹雪に押されて知らず知らず谷側に移動しているのだ。しゃにむにザイルを手繰り寄せようとした瞬間、凄まじい力で引っ張られ身体が宙に浮いた。斜面に叩き付けられ、真っ白な空間を猛スピードで滑り落ちていく。スキーを履いた足があらぬ方向にねじ曲げられ激痛が走る。必死に命綱は切り離したものの、手に巻かれたザイルが絡まり、食い込んで離れない。
私は死を覚悟した……。
※ ※ ※
私はわずかな時間、『現実』から切り離され、意識だけが真っ暗な空間を、半眠・半覚醒状態で漂っていた。
木星有人探査船ヘルムホルツ号は、その長い行程の半ばを過ぎたあたりで、プログラムのミスか、流星群の衝突による誤作動か、私の冷凍睡眠を解いてしまったのだ。
再冷凍プログラムも上手く作動せず、半覚醒、半睡眠状態のまま、航行を続けることになった。
こういう緊急時の対処プログラムは、対象者に強制的、継続的に『夢』をみさせる、というものだったのだが……。
船の狂ったコンピュータが選んだ『夢』とは――忌まわしいことに――あの10年前の山岳事故を繰り返し、繰り返し『実体験』するというものだった。
どこかで、データベースにログインする気配が感じられる。記憶の中から抽出されたあの『現実』をもう一度私にリロードするために。あの滑落による死の恐怖をもう一度味わうために。私は狂うことなく、この旅を終えることが出来るだろうか……。
そして、何百回目の『今日』が、また始まる……。
※ ※ ※
朝、待機所の無線機に遭難の一報が入った。
『ポイント154.2587の北壁付近で遭難信号を捕捉。対象者1名、ただちに出動を要請します。繰り返す、ポイント……』
私は装備を背負うと、外に出て山を見上げた。西の峰に白く雲が湧いている。まぁ、何とかなるだろう。
「沢崎、行くぞ!」
私はペアの同僚に声をかけ、救出ポイントへの道を駆け始めた……。
End