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『ふゆの夜』
【ファンタジー その他小説】

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『ふゆの夜』-1

 「あれはのぅ、ワシが17の時のことじゃった……」
 
 年老いたこの家の主は、縁側に座り、膝にのせた猫の背を大事そうに撫でながら、マイクに向かってポツリポツリと話し始めた。
 
 「親父どのとのぅ、雪山に入ったのはいいが道に迷ってしもうて、とっぷりと日は暮れるわ、吹雪くわでのぅ、山小屋に着いたのはもう夜じゃった……」
 
 
 
 一時間ほどして、話し終えた主がコクリコクリと船を漕ぎ始めたのを潮に、若い民俗学者は、終わりましたよ、と隣りの間にいる老婆に声をかけた。お茶でもあがっていかれませ、と囲炉裏に鉄瓶を吊るすと、老婆はかたわらの繕い物を手にとった。
 
 
 10月も終わりに近付いた山間の村は、早くも冬のたたずまいで、空はどこまでも高く、青く、燃えるように赤く染まった山々も、所々錆び色に変わり始め、時折鳥の鳴く声が聞こえるばかりで、人里離れたあばら家に3人、一幅の絵のようにただポツリと座っているばかりだった。
 
 
 「不思議のものですねぇ。毎年、雪女伝説の分布と変容、というテーマでお話を伺ってますが、ご主人の語られる内容が毎回少しづつ変化しています」
 
 学者は熱い茶をすすりながら言った。
 
「当初、顕著だった恐怖が、年月を経るにしたがって失われ、憧れや親しみ、過ぎた昔を懐かしむような語り口になられたのは、不思議としか言えません。人の心というものはどんな物も時間をかけ、自分の受け入れやすい形に変えてしまうものなんでしょうねぇ」
 
 老婆は聞こえたのか、聞こえなかったのか、丸い背をかすかに揺らしながら囲炉裏の火を見つめていた。
 
 
 山の日暮れは早く、もうこれで、と学者が腰を浮かせた時、老婆は遠い記憶を確かめるように、ポツリポツリと話し始めた。
 
「わしがのぅ、爺様のところに嫁いで来たのは、爺様が18、わしが15のことやったのぅ。身寄りがないというわしの言葉を疑いもせず、あれやこれやと優しくしてもろぉた。無口な人でのぅ、怒ったことなんぞ、一度もなかった……」
 
 囲炉裏の火が消えたのか、広い屋敷が急に寒々と感じられ、学者はブルッと身震いした。
 
「山で出会うた時は、すぐにでもとり殺してくれようと決めておったのに、ここに来てからも、一言でも口を滑らせたら生かしておかぬ、と思っておったのに、爺様と暮らすうちにそんな気も、とんとなくなってしもうたのじゃ。芯から優しい人やもんでなぁ」
 
 座敷はますます寒く、吐く息が白くなった。
 
「爺様の足腰が弱くなって、頭も同じように弱くなって、あの夜のことを独り言のように呟き始めた時も、わしはもう許しておった。いや、懐かしげにあの出会いの晩のことを語る爺様が、愛しくて愛しくてたまらんかった」
 
 若い学者は動くことも出来ず、青い顔で、ただじっと老婆を見つめている。
 
「あんた様もさっきおっしゃったのぅ、人は変わると。そう、わしも変わってしもうたようじゃ。爺様ももうすぐ人としての天寿をまっとうするじゃろう。そうしたら、わしはまた一人であの山に帰らねばならん。あの寒い山に……」
 
 
 老婆はそう言うと、不自然な形で縁側に横たわる主の姿をみて、寂しそうに、そして愛しそうに笑った……。
 
 
 
 
         End


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