隣室 ……… 第三の物語-1
『 隣室 ……… 第三の物語 』
――― 女は待っている………隣室で。女は私だけのものになる。私は女のために首輪と手錠を用意している………。
何気なく手にした夫のノートに書き出された文章はそれだけだった。正確には題名と書き出しのわずかな文字だけだった。
イタリア語で小説を意味する「ロマンゾ―― romanzo 」 ……それが、夫が《これから書こうとした小説らしき文章》の題名だった。いや、そこに書き綴られた短い言葉だけでは、夫が書こうとしたものが小説かどうかはわからない。
イタリア美術史の学者である夫がいつも使っているノートには学術的な記述だけが書かれていたが、真っ白なページにはその文章だけが綴られていた。たったそれだけの文章は、《これから書かれること》を、わたしのどこかでぼんやりと予感させた。それがどんな予感なのかはわからない。少なくともこれは夫の想像のもとにこれから綴られようとしていた架空の文章なのだ………わたしはそう思っている。そうだというのに、ノートに書かれようとしている女が現実に存在し、夫と関係があったとしたら。夫には、わたしが知らない秘密があるとしたら。なぜか、そう考えてしまった自分の心の裏側が奇妙に蠢きはじめていた。
わたしは夫が綴る次の文章を読みたいと微かな欲望を感じた。おそらく初めて夫という男にいだいた、わたしの中に眠っていた女の疼きだった………。
三歳年下の夫と結婚して十四年間ともにしてきた。子供はできなかったが、周りの誰もが認めるような仲のいい夫婦であり、互いに良好な絆を築いてきたとわたしは思っている。そしてわたしは今年五十四歳を迎えた。
夫はわたしの亡き叔父が理事長をしていた大学の教授だった。叔父の勧めで彼とお見合いをして結婚した。彼は婿養子として迎え入れられた。それはわたしが四十歳のときだった。結婚などする気は毛頭なかったが、なぜか結婚という言葉に心が揺らいだ。
三歳年下の茫洋とした平凡な男だったが、優しげな整った顔をしていた。恋したわけでもなく、愛したわけでもない。ただ、彼はわたしに与えられた、わたしにだけ従属する夫として存在している男なのだと思った。それ以上でもそれ以下でもなかった。
それまで心を寄せた男性がいなかったわけでもなかった。ただ、かけている眼鏡を外し、自分の顔を鏡に映したとき、わたしはいつもため息をついた。自分の顔がきれいだと思ったことは一度もなかった。凡庸な顔だった。そしてその顔は確かな老いを刻み始めていた。これまで男性に振り向かれたことは一度もなかった。そして自分のなかに潜む女の曖昧さを遠くに押しやりながら、いつのまにか年齢を重ね、気がついたときには五十歳を過ぎていた。