隣室 ……… 第三の物語-9
夫に最後に抱かれたのがいつだったのか覚えていない。それくらい夫婦の交わりは遠いものだった。それなのにわたしは、あの男に犯されているとき(それは夢の中だったが)、なぜ夫を思い出したのか。その理由はわかっている。あの男の視線を感じたせいだった。あの男がわたしを見つめ、わたし自身がその視線を受け入れていたことによって、夫が関係をもっているという彼の恋人に対する嫉妬に気づかされたのだ。
彼の恋人である女の若く美しい肢体が夫の肉体と重なり、息苦しい意識としてわたしの中に深く滲み入ってくる。あの男はその女を愛している。夫は彼の存在を知っているかもしれない。それなのに夫はその女と関係をもっている。いや、夫は女に首輪と手錠を嵌め、無理矢理、強姦したのかもしれない。よくわからなかった。ただとらえどこのない嫉妬に似た屈辱がふつふつと込みあげてきた。
わたしは珈琲カップを片手にずっと夜空を物憂く眺めづけていた。この家の夫の不在はいつも咽喉に何かを詰まらせ、胸の中を息苦しくする。夫の不在は、いつのまにか夫の浮気の時間だった。ただその時間は、今のわたしにとっては、自分という女を取り戻す時間でもあることに、わたしは気がついていた。なぜならわたしはあの若い男からの連絡を恋い焦がれるように待ちわびているのだから。
夫が自分以外の女と寝ていたことは考えもしなかったことだった。
それは夫が自分より三歳年下のわたしに従属する潔癖な男としてわたしが自分でも気がつかないうちに思い続けていたことと何らかの関係があるのかもしれないが、そのことを真剣に考えたことはない。夫は《妻であるわたし》のものであり、わたしに従属する男だという暗黙の合意は崩れるように溶け、まるで夜の海面に張った月灯りが黒い海の底に吸い取られていくように冷ややかに変幻していた。
浴室の鏡に映った夫の裸………何気ない振舞い、いつもの視線、いつもの指や息づかい、そして露呈したペニスの柔らかさまでが夫を故意に隠すようなものとして感じられ、重い意味を持ち始め、私を息苦しくさせた。
ノートに書かれた小説の冒頭の言葉から、夫に女の気配を嗅ぎ取ったのは《妻であるわたし》の感だった。その女の名前も顔も、もちろん知らない。夫が綴った言葉から嗅ぎ取った女の気配。女の顔も姿も、声も、仕草もわからないのにわたしは、女に嫉妬をしていた。
あの男の恋人だとしたらやはり若い女かもしれない。おそらくわたしが纏っている肌の皺や染み、弛んだ余分な脂肪をいっさい持たない、そしてわたしが肉体において失ったものをすべて身に纏っている女。濁りのない澄んだ肌と撥ねるような肉体。そう思うと、夫と女が冷ややかにわたしを追いつめていくような気がした。
女の携帯番号をわたしは夫の手帳から知り得た。でも女に電話をかけて、いったい何を言うつもりなのか。憎悪をむき出して、相手を罵(ののし)り、なじり、夫を返して欲しいと惨めに叫ぶ妻の演技をするのだろうか。
何度も受話器を手にしながらも番号を押すまでにいたらなかった。いや、もしかしたらその女は、今、この時間に夫と関係しているかもしれない。そう思うと握りしめた受話器が掌の汗で湿っていた。