隣室 ……… 第三の物語-4
どこからか電話の音が聞こえてくる。
……あなたの旦那様は、ぼくの恋人と関係をもっています。そのことについてあなたとお話をしたい。明日の夜七時、地下鉄R駅の裏路地にあるホテルKの最上階にあるバーで待っています。
黄昏の淡い光に充たされたホテルのバーの大きなガラス窓から満月が見えた。薄暗いバーには若い男女がひと組だけが仲睦ましくカウンターの隅にいた。背の低いずんぐりした中年の不愛想なバーテンが無表情にわたしを迎えた。
その男は若い男女の客と反対側のカウンターの端のスツールに腰を降ろし、煙草をくゆらせ、すでにわたしを待っていた。まだ三十歳前半くらいの年齢の細身の男は、胸元のボタンがひとつ外れたたポロシャツと脚の輪郭を浮き立たせるようなズボンを身に付けていた。艶やかな黒髪をした整い過ぎた顔は、まるで氷の彫像のように冷たく印象的だったが、その顔はどこかでわたしの遠い記憶を薄く撫でた。
以前どこかで出会ったことがあるような男だったが、はっきりとは思い出せなかった。この男はいったい誰なのか……。記憶の中を男の顔がよぎるのに、その記憶を確かめられない、そんなもどかしさだけが漂っていた。
それにしても若い男とはこういうものなのか。瑞々しい容貌、潤んだ大きな瞳、整い過ぎた鼻筋、柔らかそうな蜜色の唇。その美しい顔立ちには、ベールで包まれたような若い獰猛さと青々しい物憂さが漂っていた。
なめらかな首筋や腕、ポロシャツの首元から覗いた白い胸は、小麦色の肌理の細かい若々しい肌をしていた。何よりもすっとさりげなく伸びた長く優雅な指は男のものとも女のものとも思えないような無垢の完璧さをもっていた。彼の若い体はわたしが注ぐ視線を吸い込み、わたしの心と体の迷いを濃くし、戸惑わせた。
不思議に、彼はどんな匂いも身に纏ってはいなかった。無臭で、無機質で、つかみどころのない空白の匂いだけが意識されるのに、なぜか彼の視線は、はっきりとわたしの体の裏側で蠢くものをとらえていたような気がした。
わたしはノンアルコールのカシスソーダを注文した。男はちょっと考え込むような仕草を見せ、不意に煙草を深く胸の奥に吸い込んだ。
「ぼくは自分の恋人がある男性と関係があることを知ったときから、彼女とどう関係を続けたらいいのかわからなくなりました」
丁寧な言い方は、はっきりとした声だった。
「その男性がわたしの主人だというのかしら」
いったいこの男の恋人とは、どんな女性なのだろうか。
美貌の彼に恋慕をいだかせるその女性は、彼よりもっと若く美しいのかもしれない。そしてその女性と夫は関係をもっている……わたしは胸の奥底がぎゅっと締めつけられるような息苦しさを感じた。
男はじっと考え込んでから静かに言葉を洩らした。
「実は、そのことをぼくもあなたも、《すでに知っている》のではないかと思っています」
「それはいったいどういうことなのかしら」
「そのことを知っているからこそ、ぼくとあなたはここで会うことができた……そうじゃないでしょうか」
彼は消えかけた煙草の先端にライターでふたたび火をつけた。ジッポライターのふたが閉じる音がした。ふと灯りにかざされた彼の指にわたしの視線が止る。それは光にかざされるともっと美しく映えた。いや、それは指というより彼の性器にさえ思えた。
彼がゆっくりと煙を吐き出すあいだ、わたしは彼の指に押さえきれないような密かな疼きを感じ続けていた。じっと彼の横顔と指に交互に視線を注ぐ。遠い記憶をたどってみる。どこかで会ったような顔。やはりどうしても思い出せなかった。