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アンソロジー(三つの物語)
【SM 官能小説】

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隣室 ……… 第三の物語-3

あのノートに書かれた文字から、夫に女の気配を感じていたわけではない。浮気の気配のかけらもない夫は安堵すべき対象だったのか。いや、もしかしたら夫は、もともと異性に触れたいという欲望を失っていたのではないか、それが自分のせいなのか。そしてあのノートに文字を書いているときの夫は《誰かに対する、ある種の情欲》をいだいた……そんな疑問は尽きることなくわたしの中で空回りした。

 入浴をすませたわたしは、バスローブを体に巻いたまま寝室の化粧鏡の前に佇む。
自分でないような中年の女が鏡の中に写っていた。いつもは髪を後ろで束ね、縁が尖った眼鏡をかけているが、鏡の中の女は、眼鏡を外し、黒髪を娼婦のように淫らに解き、皺が微かに刻まれた目尻に淫蕩さを溜めている。
五十四歳という年齢を冷ややかに暴くように、顎はたるみ、小皺と染みが目立ち始めた顔肌は艶を失い、厚い唇はだらしなく卑猥に薄く開いている。豊かすぎる乳房の谷間がいやらしい翳りを見せ、肉体のどんな部分の肌もいつのまにか色褪せ、潤いを失い、残酷な老いの彩(いろ)の気配さえのぞかせている。繋ぎ止めるものが失われ、肉体を蝕むものだけが潜みはじめている。
こんな姿に、わたしはいつからなってしまったのか。鏡はまるでわたしを鞭打つように痛めつけ、わたしを老いの怯(おび)えと憐憫(れいびん)へと追い込む。心と体が遠いところで蒼味を帯び始め、知らないあいだに自分が失ったものがとても大きなもののように思えた。

ベッドにはすでに夫が横になり本を読んでいる。手にした本から逸らされる夫の視線を不意に鏡の中に感じる。いったい夫はわたしの何に視線を向けているのか………。
わたしは夫に裸の背中を晒していたが、そのとき夫に、わたしのすべての体を見せることにひけ目を感じたのは確かだった。いつのまにか若さが剥ぎ取られ、輪郭のゆるんだ肉体は、いたるところに余分な肉がつき、いやらしいほどの脂肪がまぶされ、顔と違ってごまかしがきかないほど歳を重ねていることを露わにしていた。
わたしは夫に対して微かな恥じらいを初めて感じた。夫はこれまでわたしの体に《彼のほんとうの視線》を向けて、その視線でわたしに触れることはなかった。私にはなぜかそう思えた。どうしてそう思ったのかはわからない。
 わたしは、もしかしたら夫には性的な部分が欠落しているのではないかとさえ思うようになった。厳格で真面目な夫は、わたしが貞淑な妻である前に、ひとりの女であることを感じているとは思えなかった。それはわたしに触れることなく眠りについたベッドの中の夫を見たとき、わたしが心と体の奥底にとらえた夫への感情だった。自分と夫とのあいだにこれまで性愛は存在したのか、そんな疑問の答えはどこにも見あたらなかった。


 秋の陽ざしが心地よい午後、わたしはベランダの安楽椅子でまどろむ。なだらかな丘の中腹にある庭の樹木のあいだから街の風景が見わたせる。風が微かに樹木の葉をざわめかせる。わたしは目を閉じ、夫が書いたノートの文言を脳裏で繰り返す。

やがてわたしは深い眠りに堕ちていった………。


――――――



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