隣室 ……… 第三の物語-23
ふと気がついたとき、わたしのアイマスクは外され、ベッドの上にひとりだけ残されていた。
部屋に男はいなかった。ベッドから起き上がり、部屋の様子に視線を注ぐ。天井から垂れ下がる鎖が微かに揺れている。後ろ手に拘束していた手錠は解かれ、首輪もなかった。脱ぎ捨てた衣服や下着はきちんとたたまれていた。
わたしはしばらくぼんやりとベッドの上で暗い天井を見ていた。何かが違っていた。あの男が漂わせていた体臭とは違った、わたしの記憶の底にある匂い。その匂いはあのとき男と初めて入ったホテルの部屋に残っていた匂いと同じだった。
わたしは衣服を身につけると細い廊下に出た。ダウンライトが仄かに床を照らしていた。ふと、自分が出て来た部屋の重厚な扉に刻まれていた文字に目をやる。
K―三○X号という文字が目の中に飛び込んでくる。隣室は三○七号。わたしは気が動転するくらい頭の中が真っ白になった。違う……夫が女と約束した部屋が三○X号であり、わたしは隣室の三○七号の部屋にいたはずだったが、わたしが男と行為を行った部屋こそがK―三○X号の部屋だった。
疑念が渦を巻いて脳裏を駆けめぐった。もしかしたら………いや、確かにそんな気配を感じた記憶が微かに浮かんでくる。アイマスクをされてからの男の気配の変化、沈黙、複数の足音、漂う空気と匂いの変化。アイマスクでわたしの瞳から姿を遮られた見知らぬ男は、いつのまに別の男とすり替わったのかもしれない。
あの匂い………部屋に漂っていたのは、夫の体臭の匂いだった………。
その日、わたしは夫が出かけたあと、密かに書斎に入ると夫の手帳を開いた。
あの建物の住所、あの部屋の番号………手帳をどれだけめくってもそれを記した文字はなかった。確かに書かれていた文字が消された痕跡も見られなかった。
いったい、どういうことなの………。
わたしは電話を手にすると、あの女の電話番号を押した。微かに手が震えていた。
呼び出し音が耳の中で細く長く響いた。電話がつながった。聞こえてきた女の声………いや、それは何かを語る言葉ではなく、溶けた飴が細く、ねっとりと垂れ落ちるような女の喘ぎ声だった。途切れることなく聞こえてくる悶え声は、鞭の音で裂かれ、くぐもった嗚咽に変わる。女の喘ぎ声だった。そして………その声は、まぎれもなくあの夜のわたし自身の声だった…………。