隣室 ……… 第三の物語-12
街の喧騒が不意に嘘のように消え、人の姿がなくなった。古い雑居ビルやマンションが立ち並んだあいだは緩やかな坂道になっていた。いつのまにか陽が沈み、あたりは黄昏の薄闇に包まれ、夕空にはいくつかの星のきらめきが彩られている。その光は誰かの視線となってわたしの背中を押しているような気がした。もしかしたらあの男かもしれないとふと思う。
道はわたしだけのために静寂を差し出しているようだった。やがて坂道を上りつめたところで色褪せた煉瓦をびっしりと蔦で覆われた廃屋のような建物にたどりつく。住所はここで間違いなかった。建物の小さな看板には、ホテルセリーヌと書かれてあったが、その場所が男と女が密かに交わるだけの場所である気配は感じられなかった。ただ、この場所、この空気、この静けさ、そして自分を嘲笑っているように佇む建物の淫靡な表情だけがわたしに迫ってきた。
コンクリートの塀の奥にある入口は、洞窟のように暗く深く建物の奥に入り込み、鋳鉄の扉には重厚な紋様が彫られていた。人気のしないエントランスのロビーは淡い光で充たされた洞窟の入口に思えた。沈黙に包まれ、澱んだ空気は止ったまま動かなかった。
男と女の密会の場所………わたしはこういう場所にこれまで来たことがなかった。いや、夫以外に男を知らない自分には縁のない場所だと思ったとき、冷気がすっと胸の中を抜けていった。 わたしはあの男と関係をもつまで、夫以外の男と交わったことのない自分を、秘密を持たない自分を、まざまざと見せつけられていた。
フロントには誰もいないと思っていたが、不意に背後から声をかけられた。
「ご予約の方でしょうか……」
振り向くと、蝶ネクタイをした痩せた老紳士がフロントに立っていた。彼の視線は朧で焦点が定まっていない。相手を見ているようで見ていないその独特な視線は、この場所にいるわたしの恥ずかしさを安心させた。
「いえ、今度、利用したいと思っているので、部屋を少しだけ見学させていただけないかしら」わたしはあらかじめ用意していた言葉を胸の鼓動を抑えるように口にした。
「ここは会員制のホテルになっております。失礼ですが、奥様はご登録がお済でしょうか」
奥様という老紳士の言葉に何か自分が見透かされたような気がした。やっぱりそう見えるのだろうかとわたしは何か自分が不貞を考えているように見られていることに微かな恥ずかしさを感じた。
「い、いえ……初めてなの、ここに来たのは」とわたしは言った。
長い白髪を背中で束ねた老紳士は、わたしの体の輪郭に視線を這わせ、まるでわたしという女を吟味するような仕草をして言った。
「ここは男性と女性が秘密を築く場所です。奥様にそういうお気持ちがあるのでしたら入ること
がゆるされるでしょう。でもご安心ください。お見受けしたところあなたはそういう秘密に対す
る欲望をいだいておられるようです。いつもはご見学だけのお客様はお断りしているのですが、
今日はまだお客様がいませんのでよろしいですよ」
わたしが、K―三○Xという部屋の番号を伝えると、老紳士の眼の窪みが微かに蠢き、鋭い光が洩れ、彼はじろりとわたしを見た。その奇妙な部屋番号は夫の手帳に記されていたものだった。
「その部屋番号は会員の方だけが知っているものでございます。ということは会員の殿方と奥様はお知り合いということでしょうか」と老紳士は言った。
わたしがあいまいに頷くと、彼はかすかな安堵の色を瞳に見せた。