隣室 ……… 第三の物語-10
夫は早朝、わたしがベッドの中で目を覚まさない時間に出かけて行った。今度は三日ほどの出張になる。テレビのニュース番組に目を向けながら言った夫の言葉に嘘が含まれることにわたしは気がついていたというのに、夫に対して返す言葉がなぜか見つからなかった。
いつだったか、その女らしき人物から一度だけ夫に電話をしてきたことがある。電話の女が夫の浮気の相手だとそのときのわたしは気がつかなかった。
「誰なの、こんな時間に電話をかけてくる方って……」
わたしはシャワーを浴び、寝室のドレッサーの前で、ドライヤーで髪を乾かしていたときだった。
夫は何を語ることなく電話を切ると裸でベッドに入り、手元の手帳に目を通していた。まるで電話の相手をまったく気にかけていないように。
「大学の事務の女性です。きみが知らない人です。明日からの学会の時間の変更を伝えてきました」と、夫はいつものようにさりげなく言った。
それはおそらく、《妻であるわたし》がそう思っていることを察し、故意にそのことを告げたかのように思えた。なぜかその女の年齢を夫に尋ねた。名前でなく、なぜ年齢を聞いたのか、自分でもわからなかった。
「年齢……さあ、いくつくらいでしょうか」と夫はそのことを気にするわけでもなく言った。
偶然、夫の書斎で見つけた手帳の出張の日に書かれたホテルの名前。不意に確かなものが脳裏を横切った。それは夫が女と関係を続けることで、わたしがあの男と関係を続けられることの確かさの予感だった。そしてそこには、それを望んでいる私がいた‥……。
あの男から連絡がないことがわたしを微かに疼かせ始めていた。
わたしはクロゼットの中から取り出した葡萄酒色のワンピースを着て鏡の前に立っていた。夫の前で一度も着ることがなく、クロゼットに入れたままだった服は、あきらかにふくよかさを増したわたしの身体を嫌と言うほどぴったりと包み、肉が弛んだ輪郭を際立たせ、膝上の丈が恥じるような脚を見せている。
眼鏡を外し、後ろで無造作に束ねていた髪を解き、いつもとは違う口紅を塗った。鏡の中に淫らに飢えた女が見え隠れしていた。わたしは、初めて見たような自分の顔に、ある種のときめきと後ろめたさを感じていた。でもわたしは鏡に映った自分の姿を拒まなかった。
わたしに向けられたあの男の視線が鏡の中に漂っているような気がした。いや、わたしが彼の視線を欲望していた。彼の視線は、わたしの身体と心の奥底まで舐めるように浸透し、肉体の奥に埋もれたものをくすぐるように撫でる。彼の瞳から注がれる視線はわたしの中の女に深く入ってくる。わたしはその視線にくすぐられる微かな快感に浸る。いつのまにかわたしの中に溜まった女の淫らな盛りが陰毛の湿り気から膿のように滲み出していた。