杏奈と健 〜 献身 〜 -5
10日ほどの短い研修だったが、大学の同期でもあり、大学時代には何度か長距離の練習も一緒にしていた仲なので、打ち解けるのにさほど時間もかからなかった。
その美貌に惹かれ、仕事終わりに食事をしたり、酒を飲み交わすようになり、自然と関係は深まっていった。
彼女は背丈も低く、華奢と思えるほど線の細い女性だったが、着ている服装からも判別出来るほど胸もそこそこ大きく、下半身もしっかりしていたので健の性欲を高めるには充分な身体つきをしていた。
健のおおらかで真面目な性格に加え、周りに気遣いの出来る優しい態度に惹かれ、彼女も次第に健に熱い視線を送るようになった。
お互いが求め合うのに時間はかからなかった。
10日間の研修期間が終わっても折りに触れ健のスマホに明日香のLINEが鳴るようになり、健と明日香は何度も身体を重ねていた。
もちろん明日香は健が妻帯者で子供がその間にいる事も承知していた。
それでも二人はお互いを「愛している」と表現していたのだ。
杏奈との夫婦生活は子供中心となり、お互いが求め合う事も少なくなり、それが明日香との関係を深める理由にもなっていた。
健は明日香と会うのは日に2時間と決めていた。
それは明日香も了承していた。
初めて明日香と共に夜を過ごした時、二人は夢中で身体を求め合い、気がつくと朝を迎えていた。
健は家へ帰る言い訳のために、ホテルを出る直前に浴びるように酒を飲み、昨夜は帰宅途中で大学時代の友人に会って、飲み潰れて帰れなかったと嘘をついた。
それは家族に対して罪悪感を伴い、しかもほぼ酔った状態で仕事に出なければならなかったのはかなり苦しかった。
二度とあのような苦しい嘘はゴメンだという気持ちがあった。
健は杏奈との間にできた一人娘も可愛くて仕方がなかった。
一歳近くにもなると、少しずつ喋り始め、立ち掴まりが出来るようになっていた。
何より無邪気に笑う時の笑顔は父親としての実感を伴わせてくれていた。
会社のシフトの関係で毎週という訳にはいかなかったが、月に一度あるかないかの日曜の休みには、出来るだけ杏奈や娘と過ごす時間も大切にしたかった。
なので明日香と逢うのは、平日の定時での仕事終わりの二時間と決めていたのだ。
逢えるのは週二日程だったが、明日香も自身が子供好きなので、健のそういう思いは尊重してやりたかった。
シャワーを浴び終えた二人は、健がベッドに仰向けになり、左腕を開き、明日香はその左腕に寄り添うようにして頬を寄せていた。
「松前君。娘さんて、やっぱり可愛い?」
明日香はそう聞いて来た。
「そりゃやっぱり自分の娘だしね。最近よく笑うようになって来たから、可愛いよ。ホントに目に入れても痛くないって感じ?」
健は明日香の寄り添う左手で明日香の髪の毛を摘むようにして撫で上げ、天井を見つめるように答えた。
「そっか、いいな。私も子供好きだから羨ましいな。いつかは産んでみたい。」
明日香が健の胸に手をあて、それを回すようにして健を擦っていた。
「ゴメン、明日香。僕はそれに応えられないよ。」
健は申し訳ないと本心から思いながら、そう答えるしかなかった。
明日香は少し驚いた顔を見せたが、すぐに真顔に戻り、「言ってみただけだよ。マジで取んないでね。」
そういって笑ってみせた。
健の頭の中ではそろそろ潮時かな?などという考えが浮かんで来ていた。
健のスマホがアラームを鳴らしていた。
いつも明日香と会う時はホテルに入って1時間50分でアラームが鳴るようにセットしてあったのだ。
10分あれば服を着て、ホテルを出られる。
そう考えていた。
いつものように健はスーツに身を包み、明日香もレディススーツを着て、落ちかけたメイクを直してホテルを後にした。
ホテルを出ると、二人並んで駅へと向かうが、途中から距離を置いて歩き始め、駅に着く頃には10メートルほど離れ、明日香は腰の辺りで小さくバイバイと手を振った。
健はそれに応えるように胸の辺りで手をかざす。
それがいつもの二人の別れ方だった。
明日香と別れた後、健は自宅へ向かうための電車に乗り、20分ほど揺られた後、自宅へと歩いていた。
杏奈は大学卒業後、目標としていた教師になっていた。
在学中に教員免許を取得し、教育実習も済ませた杏奈は、大学卒業後、自身の母校へ中学の国語教員として勤めるようになっていた。
父親の会社に事務員として勤めていた母親は、杏奈と健の結婚を機に父親の会社を退職し、専業主婦として家を守るようになっていた。
それは杏奈が育休を半年ほどにして復職したいと願っていたからだ。
母親は杏奈のために家にいることを望み、毎日孫の世話をすることを喜びとしていた。
杏奈はそんな献身的な母親のおかげで思う存分に仕事に打ち込む事が出来ていた。
健は実の母親でありながら、杏奈に献身的に尽くす母親を見ながら、どちらが本当の親子なのかもわからなくなっていた。
大学時代も怪我が響き、合宿でも苦しんでいたのに、たまに家へ帰ると、母親と杏奈が幸せそうに笑い合い、目の前で公然と抱擁を交わす二人が疎ましくさえ思えたのだ。
それでも真っ直ぐに健を求める杏奈の気持ちだけは突き返せなくて、杏奈との関係はずっと壊れる事なく続いていた。
健が大学を卒業し、社会に出たタイミングで、杏奈は避妊をしなくなった。
当り前のように子供を授かった。
そしてそれを機に健は杏奈にプロポーズしたのだった。
それは幸せの絶頂の筈だった。
少なくとも杏奈や母親、父親にとってはそうだったに違いない。