杏奈と健 〜 献身 〜 -29
おせんべいを取り出した杏奈はそれを咲良へ与えると、咲良はパリパリと音をさせて食べていた。
「そういえば杏奈。夕べ健が言ってたけど、あのアスカって子、不起訴になって、勾留解かれたらしいわよ。」
母親は真顔になって杏奈に話しかける。
「うん。知ってる。健から細かくLINE来てるから。」
そう杏奈が返すと
「そっか。そうだよね。」
母親は余計な事だったかな、と少し思った。
「アタシね。被害者感情は全くないって嘆願書書いたの。それ健に持って行ってもらった。
だって、彼女も被害者みたいなもんでしょ?
彼女、殺意はあったって取り調べで言ったらしいけど、それは健に対してであって、そこへ飛び込んだのはアタシの意志でやった事で、いわば事故だからって書いたの。
健も甘んじて、罰として刺されてもいいと思ったって、嘆願書書いたし。
だから起訴時点で不起訴ってなったみたい。」
母親はそれを聞いて大きく溜息をひとつついた。
「そう。二人で嘆願書、書いたの。」
母親は驚くでもなく諦めるように呟いた。
「アタシ、ちょっとしか会ってないけど、彼女、きっといい友達になれそうな気がするな。」
杏奈は笑顔で母親を見つめ、そう言った。
「友達? 友達って杏奈。もしかしたら、アナタ、あの子に殺されててもおかしくなかったのよ。」
母親はただただ驚いた。
「ん。わかってる。あと5ミリズレてたら死んでたって先生言ってたから···
でもね。お母さん。
アタシさ、ほぼ最初っから最後まで健と明日香さんの話聞いてたの。
明日香さんてさ、純粋なんだよ。
だから健も気持ち入ったんだって思った。
違う形で出会ってたら、絶対健を幸せにしてくれた人だって思ったの。
きっと健殺したら自分も死ぬ気だったんだろな、って。
だから誰にも死んで欲しくなかったの。
誰も死なないって思ってアタシ走ってったから。」
そう杏奈が話すと、母親は大きく息をついた。
「杏奈···アナタって人は···
どこまで人が良いの?
もしかしたらアナタが死んでたかもしれないのに。
でも、それが杏奈なんだよね。
だから私はアナタが大事に思えるんだろな。」
母親はそう言うと優しく微笑んだ。
「明日香さんね。今の会社辞めて、来週にも静岡の実家帰るんだって。」
杏奈がそう言うと、母親はまた驚いた顔をした。
「あの人と連絡取り合ってるの?」
母親は真っ直ぐに疑問を杏奈にぶつけた。
「んな訳ないじゃん。健のとこに連絡あったみたい。健がそう言ってた。迷惑かけたって謝ってたって。明日香さんも絶対幸せ見つけるから、健も奥さん大事にして下さいって言ってたって。」
杏奈がそう言うと、安心したように母親は笑みを浮かべた。
「幸せ、見つけて欲しいね。」
母親は本心からそう言った。
「まだ若いし、見つかるよ。きっと。」
何の確信もなかったが、杏奈はそう祈っていた。
夜になると松前家の食卓は久しぶりに賑やかだった。
家族は鍋をつついていた。
今日は杏奈の大好きなスキヤキだった。
「ん〜〜っ!ヤッパ肉は松阪だよね〜っ!」
杏奈は大喜びだった。
「杏奈、さっきから肉ばっかじゃん!僕、ひとつも肉食べてないよ」
健は不満そうに訴えた。
「食べたきゃ自分で入れなさいよ。スキヤキの肉だけは譲れないんだからね!」
杏奈はそう健に言うと、舌を出してべぇ〜っとした。
父親と母親はそれを見て笑っていた。
健は仕方なく鍋に肉を大量に放り込んだ。
しかしそれにも杏奈は箸をつけようとする。
「杏奈!ダメだって!僕のがなくなるじゃん!」
健は杏奈の箸を止める。
「健のケチ!」
両親は大笑いだった。
食事がほぼ終わり、母親がお茶を入れた時だった。
熱いお茶の入った湯呑みをテーブルに置き、父親が意を決したように健に問いかけた。
「健。父さんの会社、手伝わないか?」
健は少し困惑した表情を見せた。
「父さん···」
父親はその健の表情を見つめながら話し始める。
「陸上のクラブはないけどな。そんなの市民クラブでも何でもあるじゃないか。そんな事より、父さんは健に手伝って欲しいと思うんだ。
そりゃあど素人だから、暫くはお抱え運転手もしてもらわなきゃいけないが、やる気次第で仕事なんてすぐ覚えるもんさ。父さんもこの年になると後継問題とか真剣に考えるようになってきてな。
一代で潰すにはもったいない会社なんだよ。」
今まで父親はそんな事を一度も言ったことがなかった。
健は父親の言葉が素直に嬉しかった。
大学で就活していても、父親はあまり興味を示さなかったからだ。
しかし父親にしてみたら、健の就活の条件に陸上クラブの必要性が説かれていたので、健には声をかけられないでいた。
母親はただ黙って成り行きを見守っていた。
健は決めきれず、杏奈の目を見た。
「健の思う通りにすれば良いよ。」
杏奈はすぐに助け舟を出してくれた。