杏奈と健 〜 献身 〜 -21
健は背筋に悪寒を感じて目を覚ました。
泣き疲れ、競技場のベンチに横になり、僅かな時間だが、そのまま眠ってしまっていた。
朝を迎えていたのは明るさでわかってはいた。
思考回路は完全に停止していた。
時間さえも気にならなかった。
仕事、行かなきゃ。
健は力なく立ち上り、フラフラと歩き始めた。
競技場を抜け、幹線道路へと出るために駐車場を抜けようとした時だった。
車のドアが開く音がした。
「健····」
杏奈がそこに立っていた。
杏奈はツカツカと健に歩みより、力なくフラフラと歩く健の手を引っ張った。
「きっとここだと思った。ここにいるなら、まだアタシを想ってるって。」
そう言うと杏奈は健の腰に手を回し、一緒に歩くよう促した。
そして杏奈は車の助手席のドアを開けた。
健はダメだ。帰れない。とばかりに無言で首を横に振る。
「いいの。帰りましょ。」
健は杏奈に優しく言われ、口に手を当て嗚咽を上げて涙を流した。
健には杏奈の優しさにすがるしかなかったのだ。
車を走らせ、家の駐車場へ停めた杏奈は車から降りる事なく
「お母さん、咲良連れて叔母さんの所行ってるし、お父さん、仕事出ちゃったから、誰もいないの。アタシもPTA対応とか部活顧問で学校あるからここでね。
鍵かけてないから、ちゃんと家にいてね。
ご飯、作ってあるから、チンして食べてね。
学校終わったら、まっすぐ帰って来るから。」
そう言って健を降ろすと、杏奈は仕事へ向かっていった。
健は何も考える事が出来ずに部屋へ入り、身体を丸くして毛布に包まれていた。
目を閉じると自然に眠ってしまった。
健は寒気を感じて目を覚ませた。
刺すような痛みが頭の中にあった。
部屋を見渡すとそこかしこに咲良の玩具が散らばり、ここで繰り広げられていた愛娘との触れ合いを思い出させていた。
結婚を機に姉弟の部屋として二つの部屋だったのは仕切りが外され、16畳の大きな一部屋へと変わっていた。
ベッドはキングサイズの一つとなり、咲良のためのベビーベッドが壁にひっついていた。
咲良のこの一年の成長。
杏奈の笑顔。
杏奈の抱擁。
様々な場面が目に浮かんだ。
どれだけ他の女と官能的に肌を合わせたとしても、健はこの場所だけは失いたくないと思っていた。
なにより杏奈が傷ついた心を押し殺して迎えに来てくれた。
僕はそれに応えなきゃいけない。
そう思っていた。
このまま何も考えられずに時間を過ごすのは無駄だ。
なんとしても前へ進まなきゃ。
それには自分に正直になるしかない。
かつて杏奈に想いを寄せていた頃のように。
健は杏奈がご飯を作ってあると言った事を思い出した。
気怠い身体を引き摺るようにして一階のダイニングへと向かった。
テーブルの上にラップが掛けられた食事が目に入った。
それを見たとたん、健の目から大粒の涙が溢れ落ちた。
白く丸い皿に盛られた大きなハンバーグ。
大皿に盛られた色鮮やかなサラダ。
ジャガイモとソーセージのジャーマンポテト風ニンニク炒め。
スープカップにはジャガイモのポタージュスープが袋に入れられたまま添えられていた。
それは健と杏奈が初めて交わり、気持ちを重ねた日に杏奈が作ってくれた料理だった。
健はテーブルの前に跪き、片手をテーブルに添えて泣き崩れた。
杏奈。
杏奈。
杏奈はこんな事を仕出かした僕をまだ愛してくれている。
気持ちを取り戻せと訴えかけている。
湧き上がる嗚咽を左手で口を押さえて、堪えるように健は泣き崩れていた。
どれほどの時間、泣き続けていたのか、そんなこともわからないほどひとしきり泣いた健は、杏奈の気持ちに応えようと決意していた。
想いを寄せて、それがなかなか叶わなかった頃の気持ちを取り戻していた。
健は電子レンジで温めた杏奈の料理を静かに味わっていた。
噛み締める度に涙が溢れ落ちた。
杏奈はいつも真っ直ぐだった。
僕も真っ直ぐに杏奈を見よう。
どんな事をしてでも許してもらおう。
たとえ許して貰えなかったとしても、僕は杏奈のために生きよう。
健はそう心に誓っていた。
ダイニングからリビングの窓の外を見ると、大きく陽が傾いて見えた。
時計に目をやると17時過ぎだった。
リビングの窓の外に、杏奈の赤い車が目に入った。
健は食べた食器を纏めてシンクへと運び、玄関へ向かって鍵を開けた。
ほぼそれと同時に杏奈が玄関へと入って来た。
「ただいまっ!」
杏奈はいつもの笑顔で健に挨拶をする。
健はそれが嬉しくて、また涙を流していた。
杏奈は健のその涙にまみれた青白い顔を見て、健は十分苦しんだのだと理解した。
健は玄関フロアで杏奈に対して土下座をし謝罪の言葉を口にした。
「杏奈!ごめんなさいっ!僕が悪かった!何にも考えてなかった!大切な杏奈を傷つけてしまって、本当にごめんなさい!もう二度としないっ!ここに誓いますっ!許して貰えるなんて思ってない!でも、杏奈と一緒にいたい!杏奈じゃなきゃダメだって、今更ながらに思った!嫌われてもいいから、僕を杏奈の側に置いて下さいっ!」
健は用意した言葉ではなく、頭に浮かぶ全ての言葉を口にした。
額を床に擦りつけるほど深々と土下座をする健。
その健の肩に温かいものが触れた。
「もういいよ。健。夕べから十分苦しんだでしょ?」
健は杏奈の言葉に驚き、頭を上げ、杏奈を見上げた。
杏奈はそっと健を抱き寄せた。
健は自分の身体が震えるのを感じていた。
「杏奈。杏奈。ごめんよ。ごめんよ。」