杏奈と健 〜 献身 〜 -20
そこへ杏奈が口を挟んできた。
「健ね。気づいてないかもだけど、半年くらい前から、時々背中にキスマークついてたんだよ。
アタシ、それってたぶん、相手の女の人の挑戦状だと思ってた。
だって健から見えないとこ選んで、わざとキスマークつけるんだもん。
奪ってやるよ、って意味でしょ?」
それを聞いた父親は両手で頭を包み、肘を膝についた。
「なんてことだ···」
そう言って俯き、涙を流し始めた。
ずっと嗚咽を上げていた母親が口を開いた。
「健。健はどう思っているの?」
周りがシーンとした。
健は何も答えられずに、ただ拳を握っていた。
母親が再び話し始める。
「杏奈と結婚して、咲良が産まれて、貴方、スゴく喜んでたじゃない。その直後なのか同時進行なのか知らないけど、どうして杏奈や咲良を裏切るような事が出来るの?
私、信じられない。
貴方の全てが今は何も信じられないよ。」
そう言うと母親は父親の肩へすがりつき、再び嗚咽を上げ始めた。
父親は母親の背中に手を回し、母親の背中を擦り始めた。
そして口を開いた。
「お前はどうしたいんだ?
バレなきゃずっとこんな事を続けるつもりでいたのか?
全身全霊を尽くしてお前だけを想っている杏奈を、咲良を、ずっと裏切り続けるつもりだったのか?」
健は奥歯を噛み締め、真一文字に唇を結んだ。
拳を強く握ったまま、直立不動だった。
母親がキッと健を睨みつけ、語気を荒げて叫んだ。
「もういい!何も言わなくていい!
貴方なんかこの家にいらない!
出てって!もうこの家から出てって!」
そう言い放つと母親は父親にすがるように大きな声を上げて泣き始めた。
父親は健を睨みつけながら母親の背中を撫で続けた。
「お母さん···」
母親の姿を見て、杏奈が呟く。
杏奈は健と視線を交わせることはなかった。
それは健が選択するべきだと思っていた。
健は力を全て失ったかのように肩を落とし、少し後ずさりした後、フラフラと玄関へと向かった。
杏奈が咲良を抱いたまま後についた。
健は靴を履くと、力なくドアを開け、出て行ってしまった。
「健···」
止めどなく流れる涙を肩で拭いながら、杏奈は咲良を抱いたまま立ち尽くしていた。
リビングでは母親が泣き喚くようにして父親にすがりついていた。
健は何も考える事が出来ずに、フラフラと街をさまよっていた。
全て失った。
親も妻も子供さえも。
だが、その種を蒔いたのは自分だ。
全て自分が悪い。
誰のせいでもない。
僕はこれからどうすればいい?
どこへ行けばいい?
ポケットでスマホがLINEの通知音を鳴らしていた。
しかし健はそれを見る気にもならなかった。
ただ歩き続け、中学、高校時代に通っていた公営の競技場へ辿りついていた。
ナイター営業も終わり、競技場は闇に包まれていた。
足は自然とかつて練習の合間に水分補給の時に使っていたベンチへと向かっていた。
そのベンチへ腰を降ろすと、健は深い溜息をついた。
中学、高校時代、あの頃。
自分は姉に褒めてもらいたい。
姉に自分を認めてもらいたい。
姉を守れる人間になりたいと無我夢中だった。
深い闇の中に、当時の自分が映って見えた。
あの気持ちはいつの間に消えてしまったんだろう?
しかも姉も自分を好いていてくれた。
想いは完全に重なったのに···
健はそこで初めて涙している自分を知った。
その涙は嗚咽に変わり、とめどなく寂しさを伴った。
もう帰れない。
家にも。
夫婦にも。
親子にも。
なんて事を仕出かしたんだ。僕は。
健は肩を震わせ泣いていた。
どうすればいい?
どうにもできない。
ずっとそんな事が頭の中を駆け巡った。
流れ落ちる涙も鼻水さえも拭うことが出来ず、健はただ嗚咽を上げていた。
深い闇だけが健を包んでいた。