杏奈と健 〜 献身 〜 -19
電車を降りた健は駅から家へと向う道すがらも明日香の事を考えていた。
あんなに深く愛し合い、お互いの想いを重ねてしまえば、もう別れるなんて出来ないな。
今まで通り、愛の二重奏やってくしかないか。
そんな事を考えながら健は家の前へ立っていた。
そして何も考えず、ドアを開け放った。
「ただいま〜。」
玄関で声をかけても何の返答もなかった。
家の中は誰もいないかのように静まり返っていた。
しかし明りは煌々と点いている。
「えっ?また咲良熱でも出したのかな?」
そう思って廊下をリビングダイニングへと歩いた。
いつもなら父親がテレビをつけて、何かしらブツブツ言ってる筈なのに、家の中は不気味なほど静かだった。
ダイニングに差し掛かると、リビングのソファーに父親に母親、そして陰にかくれてわからなかったが、咲良を抱いた杏奈も父親たちの対面のソファーにその姿があった。
その雰囲気はとても重苦しく感じ、健は大きな違和感を感じた。
それでも努めて明るく振舞い、「ただいま!どしたの?テレビもつけないで。何かあった?」と聞いてみた。
皆、俯き、まるで床を眺めるようにして頭を垂れていた。
母親は啜り泣いていた気がした。
「えっ?誰か大きな病気になったとか?」
健は思わず口にした。
重苦しい雰囲気の中、口を開いたのは父親だった。
「健。どこ行ってた?」
その声はかつて聞いた事がないほど重く、低い声だった。
少し声が震えていた気がした。
「どこって、仕事だよ。母さんにも伝えたけど、会社から連絡あって、システム障害起きたから、その復旧にあたってたんだよ。」
健がそう言うと、父親はジロッと健を下から睨み上げた。
「父さんな、40分程前に頼んでたパーツが出来上がったと連絡受けて、桜木町へ行ってたんだよ。」
健は背筋がゾッとした。
「お前、綺麗な女の子連れて、肩寄せながら駅へ向かって歩いてただろ。父さんな、横断歩道の真ん前に車停めて信号待ちしてたんだ。気づかなかったか?」
健の頭の中はグルグルと考えが回っていた。
なんとかこの危機を回避しなきゃ!
一生懸命に言い訳を探していた。
「ああ、あの子ね。去年の新入社員だよ。システム障害だから、休んでる社員、全員駆り出されたし、それが解消されて、同じ駅行くって言うから、送ってあげたんだよ。」
健は我ながらナイスな言い訳だと思った。
父親は膝に着いていた両手を合わせ、それを大きく揉みだした。
「健。この後に及んでまだ嘘を重ねるのか。じゃあ、お前は新入社員の女の子を駅へ送って行くとキスするのか!」
明らかに父親の語気が荒くなった。
しかも駅での明日香とのキスシーンを見られていた!
母親はその父親の言葉を聞いて、嗚咽を上げて泣き始めた。
杏奈は咲良を抱いたまま、咲良を揺らしては健をジッと見つめていた。
健は完全に言葉を失った。
もう申し開きは利かない。
「俺はな、たまたま車線の左端だったから、ハザード炊いてすぐさまお前たちを追ったんだ。
あまりに様子がおかしいと思ったからな。
そしたらお前ってヤツは···
公衆の面前でイケシャアシャアと···
お前っ!何だと思ってるんだっ!
お前は何やってんだっ!」
父親はそういうと目の前に置かれていたガラスのテーブルをダンッ!と叩いた。
大きな音に瞬間、健はビクッとする。
続いて咲良がビックリして泣き起きた。
杏奈は咲良を抱いたまま立ち上り、「ヨシヨシ。ゴメンね···」と揺らし始めた。
母親の嗚咽が健には堪らなく辛かった。
「それは···」
健には次の言葉が思いつかなかった。
「この馬鹿野郎っ!」
父親は立ち上り、健の襟元を掴みあげ、右腕を大きく後ろへ振りかぶった。
「お父さんっ!ダメっ!」
静止させたのは杏奈だった。
「ダメ。お父さん。暴力はダメだから。」
そう言う杏奈の瞳にも大粒の涙が溢れていた。
父親は出した拳をゆっくりと下げ、ソファーへ腰を降ろした。
「父さんな、あまりに信じ難い光景だったから、家へ帰ってきて、母さんに聞いたんだ。
そしたら何だ?
母さん知ってたって言うじゃないか。
杏奈はもっと以前から苦しんでいるって言う。
父さんが偶然見るまで、父さんだけが知らなかった。
父さん、それが一番悔しい。
家族の事だから、父さん、何でもお前たちの事はわかってるつもりだった。
だけど違っていた。
父さんは何もわかってなかったんだ。」
そう言うと父親は両手で頭を掻きむしり、「ああっ!」と深い溜息をついた。