あかいろ-4
私は店の傘を1本取り、彼女に差し掛けながらタクシーを止めた。
彼女がタクシーに身体を半分入れた所で、
「傘、持って行けば? 店には、言って置くから」
と言う私の口が、突然、彼女の熱い唇に塞がれた。彼女は片腕で、私の頭を引き込み、舌を絡めた長く甘いキスをした。
長い…… 長い…… 余りにも長いとろけるような陶酔が私の身体の力を奪い、私は自分の身体が宙に浮いているかのような感覚の中で、目を閉じて、その淫らに甘い口づけにすべてを委ねていた。
数秒だったのか、数分が過ぎたのか、彼女の唇が、糸を引くようにゆっくりと私の唇から離れて行った。そしてバッグから一枚の名刺を引き抜いて、私に渡して言った。
「電話して。直ぐにね。何日も待たせたら、もう貴方の事なんか、忘れちゃうわよ」
そして、傘を受け取ると、タクシーの運転手に言った。
「ごめんなさい。お時間取らせて、渋谷までお願いします」
ドアが閉まり、雨に煙る街並みに、切ないテールランプの光を滲ませて、車が消えて行った。
私はその場で、暫く雨に濡れていた。彼女の残した唇と舌の余韻が、私の心と思考を麻痺させて、喜びの実感が中々手に入れられなかった。むしろ、余りの恍惚の後に、淋しさだけが残った。
私は顔を夜空に向けて、雨粒に晒した。少しずつ意識が戻ると、雨の中に踊り出したいような高揚感に包まれた。しかし止めておいた。無様なステップでその夜を台無しにしたくは無かった。
店に戻ると、皆が彼女の話をしていた。
店主が言った。「すさまじくお奇麗な方ですね?」
他の誰かが言った。「いや、あれだけの美人はちょっといないね。どこで知り合ったの?」
「性格もいい子だよね〜 何あの笑顔!」
私は誰にも何も答えられないまま、首を振ってカウンターに座り、残っていた酒を一気に喉に流し込み、雨に濡れてしまった、紅葉に渡された名刺を見た。
それは真っ赤な艶消しの紙で「singer 紅絹(MOMI)」そして、事務所の電話番号と住所、携帯の番号、HPのアドレスが書かれていた。
翌日私は、紅葉に電話をしようか散々悩んだ挙句、直ぐにとは言われたが、流石に翌日には止めておく事にした。待てと言われて待てない犬のような気がしたからだ。
2日目の夜、私は彼女の携帯に電話をいれた。
「もしもし。今、大丈夫?」
「あら。電話遅かったのね。誰だか忘れる所だったわ……」
「あっ…… ごめん。会いたいんだけど、いつ会えるかな?」
「今、何処にいるの?」
「仕事終わって、渋谷にいるよ」
「六本木ヒルズの展望エレベーターの前に、直ぐに来て」
そう言って、彼女は電話を切った。
私は慌てて、タクシーに飛び乗り、六本木に向かった。タクシーを降りて、階段を駆け上がり、展望エレベーターの入り口に向かうと、かなり離れた距離からでも、彼女が待って居るのが判った。
その夜彼女は、胸元の深く開いた、オートクチュール風の黒いロングドレスを着ていた。誰だって街でそんな恰好はしていない。それは彼女にしか許されない美しさだった。
私が速足で近づいて行くと、私を見つけた彼女が、優しい微笑みで、息を切らした私を迎えた。
「走ったの? 可愛い人」
そう言って、私の頭を両腕で包み込み、又、あの口づけをした。時間が止まり、雑踏が消え、甘美な陶酔だけが世界を支配した。
ゆっくりと私の唇から離れた、彼女の赤く濡れた唇が、それでもまだ数センチの距離にある私の唇に囁いた。
「私、今からライブなの。来て。聞いて。今夜は素晴らしい歌が歌えそうよ」
そう言うと、私の手を取り、エレベーターに乗せた。52階でエレベーターを降りると、レストランに入って行った。その店の中央には夜景をバックにステージが仮設に作られていて、私をその前の席に座らせると、ウエイターに向かって歩いて行き、何か囁いたかと思うと、そのまま何処かに消えてしまった。
ウエイターがやって来て、私に飲み物を訪ねたので、私はジントニックをオーダーした。