あかいろ-3
「どうするの?」彼女は言い捨てた。
「え、西麻布のバーにでも行こうと思うけど…… 一緒にどう?」
「西麻布か…… いいわね。連れてって」
「うん!」
私は喜び勇んでタクシーを止めた。私は、彼女のドレスを見て、先に奥の席に乗り込んだ。続いて彼女が身体を滑り込ませ、私の耳元に口を寄せて言った。
「あなた、いい男ね。私のドレスを気遣って、先に乗ってくれたでしょ? 馬鹿の一つ覚えみたいに、お先に、お先にって言う男が多いのに、素敵よ」
その時、彼女の香水が香った。甘く切なく、安らぎと刺激を与える、大人の女の匂いがした。私が、その香りの賛辞を語ろうとした時、彼女が言った。
「それに、いい匂い。あなた、匂いの趣味も素敵ね」
タクシーの運転手が、少し苛立ちながら言った。「お客さん。どちらまで?」
「あっ…… すみません。西麻布までお願いします」
百パーセント後手後手であった。私がそんな事を考えて居ると、彼女が又囁いた。
「それに、タクシーの運転手さんに丁寧なのも素敵」
そう言って意味深に微笑んだ。又だ。こんな後手後手の男のどこが素敵なんだ。私は自分に呆れながらも、彼女に言った。
「紅絹(もみ)ちゃんだよね?」
「あら? 一応調べたのね? でも、違うわ。紅葉(もみじ)」
「え!? 歌を歌ってる、紅絹ちゃんだって聞いたよ?」
「そう、歌ってる時は紅絹。今はオフだから紅葉。紅葉が本名よ」
「そうなのか。紅葉か…… 可憐な名前だな。でも、どちらも真っ赤だ」私はそう思い、彼女の血の色に触れたような錯覚を覚えた。
「紅葉ちゃんは、今何歳なの?」
「『紅葉ちゃん』は変でしょ? 紅葉でいいわ。貴方年上なんだから、気を使わなくていいのよ? 二十三よ」
私は驚いた。
「え!? そんなに若いの? 三十ぐらいかと思ってた! あっ…… いや…… ごめん。大人っぽいって意味ね」
私は、又怒られることを覚悟した。
「あら! ありがとう! 嬉しい! これぐらいの年で若く見られるって、馬鹿だと思われてるみたいで嫌いなの。30歳って一番素敵。更けてもいないし、情緒も身に付いて、女が一番美しい時だわ。あなた、人を内側で見れるのね? 素敵」
「又褒められた。私はからかわれているのだろうか?」そんな事を考えて居ると、タクシーが止まった。
その店は、日赤通り沿いにポツンとある小さなバーで、一人で時折訪れていた為、客も顔見知りが多かった。私は紅葉を店主と、その他の客に紹介した。紅葉は素晴らしい笑顔を振りまき、すぐに皆と打ち解けてしまった。
あちらこちらで愛敬を振りまいていた紅葉が、やっと私の隣の席に戻って来た。
「人気者だね?」と私が言うと、彼女は眉間に皺を寄せて言った。
「バカね…… ここは、貴方のお店でしょ? 貴方の為に愛想良くしてるのよ。本当は貴方の側に居たかったの…… ねえ。キスして」
私は驚いて言った。
「え? ここで? 今? それは……」
「バカ…… つまらない男……」
彼女の大きな瞳は私を見捨てて、遠い所を彷徨った。
「ふ〜 …… 飽きちゃった。そろそろ帰ろうかしら……」
「え? もう?」
「ええ。貴方はもう少しここで飲んで帰りなさい。私は行きたい店があるから、行くわ。付いては来ないでね。でも、タクシーまでは送って。ごちそうさま」
そう言って、立ち上がってドアに向かった。
私は慌てて、店主に
「ちょっと、タクシーまで送ってくる」
と言って、後に続いたが、紅葉は他の客に別れを告げるのに忙しく、私は間抜け面で後ろに立っていた。
やっと外に出ると、小雨が降り出していた。