みどりいろ-1
翠(みどり)の皮膚は、体中の隅々から、唾のすえた匂いがした。
唾液と言うものは、付いた瞬間はさほど匂わないのだが、数秒の時間に腐敗して甘ったるい汚臭を放ちだす。自分の唾の匂いなのだから仕方が無いが、その匂いが私の好きな彼女の体臭を隠してしまうことは悲しかった。しかしこのところ彼女は
「もっとなめて。体中なめて。みどりのどこもかしこも貴方の唾の匂いでいっぱいにして」などと言うのだった。
初めて翠と会った夜、彼女は友人二人と一緒に、私の行きつけのバアに現れた。
それは一月の初旬、まだ街が正月の名残を残した凍えるような明け方だった。彼女たちはクラブ帰り特有の、踊り続けていたのであろう若い熱気を、体中から立ち昇らせていた。
「まだ、大丈夫ですか?」
店のスウィングドアからなだれ込んで来るなり、三人の中で一番背が高く、細く大人びた少女が、まるで「挨拶はこうやってするのでしょ?」と言わんばかりに、長い付け睫毛を振り回しながら言った。
「おう! うちは八時までやってるよ。後三時間少ししかないけど、よろしければどうぞ〜 未成年じゃないよね?」
と、私と腐れ縁のバーテンが、笑いながら言った。
「もう二十歳で〜す。電車が動くまで、一杯お願いしま〜す」
その夜は、正月疲れなのか、凍るような寒さのせいなのか、他の客達は早々に掃けて、その時店には私とバーテンの他には、私の左隣に席を一つ開けて、初見のアジア系の外国人が一人居ただけだった。若いと言う年齢を超えていそうな、浅黒い肌に強い癖毛のその外国人は、先ほどふらりと店に現れ、トマトジュースを一杯オーダーすると、大きなヘッドフォンを付けたまま、自分一人の世界の中で、赤いドロドロとした液体を啜っていた。
三人がカウンターの私の右隣に並んで座った時、私から一番離れた席に着いたのが翠だった。彼女達は、三十五以上も年の離れた、自分の父親より年上の、それでいて全く別の種類の男に対して、露骨に興味を示し、矢継ぎ早に私に質問を浴びせて来た。翠は、私の声が聞こえにくかったのだろうか、カウンターの上に身を乗り出すように話に耳を傾けながら、大きく切れ長な瞳で私を見つめていた。
「いつも一人で飲みに出るんですか?」痩せた少女が言った。
「うん。そうだね。付き合ってくれる子も居ないし、一人が好きなのかな? 寂しいのは嫌いだけどね」
「え〜⁉ うそ〜 モテそうなのに〜」
「え? じゃあ浮き合ってくれる?」
「残念…… それは、無い!」
そう言って彼女達はケラケラと笑った。
私の左に居た外国人が、トマトジュースを飲み終えて帰った後、私は、幾度も目が合っていた翠を、左隣の席に呼んだ。彼女が隣に座った時、少し甘みの強い、やはり少女の残る香水の香りがした。
「はい。お代わりはいいの? きっとオジサンが奢ってくれるよ〜」そう、バーテンが言うと
「え⁉ 本当ですか? いいんですか? やった〜!」
「いいよ。だけど、一人十杯までね」
「そんなに飲めません!」
そう言って、彼女達はケラケラと笑った。
私は、少女たちの匂いに包まれ「正月早々、今年は良い年になるかも知れないな」などと、酔いに任せてその状況を楽しんでいた。
すると、翠が驚く言葉を私の耳元で囁いた。
「それは、ハートですか?」