みどりいろ-3
翌週の週末、私は代官山の駅前に立っていた。私が諦め半分に誘った食事に、翠が二つ返事で返信をくれたのだ。
私は少し小洒落た和食屋に予約を入れ、小さなブーケを持って、駅の外で煙草を吸いながら前を横切る人々を眺めていた。「この街も若くなったな……」と思った瞬間、街が若くなったのでは無く、自分が年老いた事に気付いた。浮いて居るのは自分なのだ。私は急にそわそわと落ち着かない気分になった。約束の時間まで、まだ十分以上ある。
すると突然私の前を翠が横切った。私は驚いた。このところ人と待ち合わせをして、相手が十分以上前に現れた記憶など無かった。彼女もまた同じように油断して居たのであろう。まさか先に私が待っているとは思わぬ様子で、私の前を通り過ぎた。
彼女は、膝丈の薄いベージュのウールコートを着ていて、先週会った時よりも大人びて見えた。そして、思っていたよりもかなり背が高かった。私は彼女の足元を見た。スウェードの赤いパンプスの細いヒールは、10cmほどもあったのだ。そしてその上の小さなくるぶしは、花開く事を夢見る蕾のように、硬く艶々と輝いていた。
「みどり!」私が声を掛けると、彼女は驚いて振り向き、やっぱり眉を八の字に下げて、恥ずかしそうに笑った。
彼女の視線が私の手の花を捕らえたので、私はブーケを渡して言った。
「はい。初デートだから」
「嘘みたいです! こんな事されたの初めてです! 映画みたい!」そう言って、寒さで赤らんでいた頬を、よりいっそう赤らめながら、小さな花束を抱き締めた。
五分程歩いて和食屋に入り、席に案内されると、彼女はコートを脱いだ。チャコールグレーのタイトスカートの上に薄いグレーの胸元が深く開いたVネックのセーターを着た彼女は、驚くほど大人の女だった。
そして、その首すじには、小さなピンクの石が付いた金色のネックレスが揺れていた。私にもし次の機会があるのなら、そのネックレスを、私の贈った物に変えてしまいたいと言う、我儘な欲望を芽生えさせるほど、彼女は魅力的であった。
食事をしながら、他愛も無い話の合間に、彼女を観察した。身のこなし、話し方、言葉の選び方、全てに置いて、ここ最近知り合った女性の中でも、取り分け大人を感じさせる女性で、育ちの良い気品に溢れていた。
「ご家族は、何をしていらっしゃるの? どんなご家庭?」
私の唐突な質問に、少し戸惑いながら
「はい。普通のお家ですけど、父も母も教師をしています。三つ年上の兄が一人いて、祖父母も同居しています。あと犬が二匹…… チャイとチョコがいます」
思わず私が少し笑うと
「? 可笑しかったですか? 何か変でした?」と慌てて言った。
「いや…… ただ、犬の名前だけ付け足したのが可愛かったから」
そんな会話の間も、私は、彼女の眉の動きが作り上げる魅力を観察し続けた。そして一つの結論を導き出した。
何も語ろうとしない彼女の眉は、細く美しいなだらかな山を持って伸びていた。そしてその下の目は、長い睫毛を湛えながら大きく切れ長に吊り気味に目尻を上げている。それ故、無表情の彼女は、かなりきつい印象の顔立ちであったのだが、その眉が何かの感情を宿した時、山を崩して真っ直ぐに眉尻を大きく下げ、それに引かれるように眉頭は眉間に縦に深い溝を刻んだ。それは緊張の時も、喜びの時も、悩み、驚き、恥じらいの時も、全ての感情の動きに、美しく反応するのだった。
しかし…… その下の彼女の目は、どの時も、目尻を下げる事は無く、強い意思をたたえたまま涼し気であった。その二つの相反する部位の表情が、彼女に切なくも甘ったるい魅力を与えていた。
それはまるで純潔と淫靡、無垢と妖艶を同時に語る唇のようだった。