星彩 ……… 第二の物語-19
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あれから三年がたった。老人は病で亡くなった。老人の家は売りに出され、長屋は不動産会社の手にわたり、わたしは引越しを余儀なくさせられた。そしてあの廃屋のマンションも取り壊された。わたしは何もかも失ったような気がした。
夏が終わりを告げようとしていた。空も雲も薄くなり、陽ざしは柔らかくなっていくのが感じられた。わたしは真新しいアパートの部屋の窓辺に佇み、樹木のあいだの木洩れ日に向って眼を閉じた。
物憂い憧憬が脳裏をよぎっていく。わたしは老人の死によってあの男の子の視線を失った。そして彼の視線を失ったときから自分が見えなくなったような気がする。でも彼の視線に晒されたわたしは、ほんとうにわたしだったのだろうか、そんなもどかしさがいつのまにか閉じてしまった心と体の記憶をよぎっていく。そしてぽっかり空いた時間だけが、ひそやかな沈黙と静寂を醸し出していく。
日曜日の昼下がり、仕事が休みだったので久しぶりに古い友人とカフェで会っていた。彼女はわたしの高校の同級生だった。彼女が来年、開かれる予定の同窓会の話を始めたので、わたしはあの男の子のことについて何気なく尋ねた。
「ほら、望遠鏡をいつも手にしていた男子がいたでしょう。確かテンモンガクを勉強するために東京の有名な大学に進学した彼よ」
「彼ってK…君のことでしょう」
友人は彼のことを覚えていたようだった。わたしはそのとき初めて彼の名前を想い出した。確かに記憶のどこかにある名前だった。
「彼って、今、どうしているのかしら」と、わたしはどこかに淡い期待をいだきながら彼女に尋ねた。
「あら、彼のこと、ほんとうに知らないの」と言って、友人は驚いたような顔をして珈琲カップをテーブルに戻した。
わたしは、何か聞いてはいけないことを言ったような気がした。
「彼って自殺したのよ。どこかのマンションから飛び降りて。即死だったらしいわ。詳しいことは知らないけど」と彼女は言った。
「えっ、それいつ頃なの」と、あたしは胸の鼓動を抑えるように言った。
「確か三年くらい前だと聞いたことがあるけど」と彼女は言った。
何かがわたしの胸の中で氷のような結晶になり、砕け、その粒が胸の奥を凍らせていくような息苦しさが込みあげてきた。
友人と別れ、夜道をただ歩き続けた。どこかに向かおうとしているのに、どこに向かって歩いているのかわからなかった。見あげた夜空に星が見えた。月のない暗闇の中に散りばめられた星の瞬きが、ゆるやかに瞳の中の涙に優しくまぶされた。
そのときわたしは、星の光がにじませた彩(いろ)に向かって自分が歩いていることに気がついた。それはあの男の子の声であり、視線であり、彼の記憶に違いなかった。でもわたしは、その光の彩(いろ)からとても遠いところにいる自分を感じた。光はわたしの心と体をどんどん寂しくしていくような気がした。
わたしは見あげた夜空に煌めく星の彩りの中に、止めどもなく溢れてくる涙を晒した……。
…………(第二の物語 「星彩」 終わり)